2008年07月22日

『伝言』・その一



 あなたの言葉は、僕にはとどかない。

脩一は確かにあのとき、奈美にそう伝えた。二人が待ち合わせた喫茶店でだ。大きな杭で打ち抜いたような細工の施された赤銅色の傘から、白熱灯が光を漏らしている。両手を軽くテーブルに置き、彼女が左奥で待っていると、脩一は俯き加減で扉を開け、姿をあらわした。それは彼の癖だ。奈美は軽く首をそちらへ傾け、迎えた。
 脩一は奈美と挨拶は交わさず、椅子に坐った後も店員がくるのを落ち着かぬふうに待った。肩から力がぬけずそれがかえって微かなゆれを起こした。表情も硬いままで、意識すればするほど瞳の下がひくひくと痙攣する。テーブルに隠れて見えない膝から下が細かくふるえ、どうすることもできなかった。
 店員がきたとき用意した言葉が出ず、彼はもどかしげに眉間に力を入れた。奈美がコーヒーを二つ注文した。
ふだんとのあまりの様子の違いに慌てた彼女は、さっそく呼び出した要件を切り出した。
「こないだは、ごめんなさい。いきなりあんなものが出てきて。あなたには関係なかったわよね。私があんなことをしようって言いだしたものだから。あとからとても申し訳ないことをしたなと思って、とにかく謝ろうと……」
 脩一は、言葉のひとつひとつがうまく聞き取れず、顳顬をぴくつかせた。
「どうしたの? ずいぶん疲れているようだし。何かあったんだったら、話してくれない」
 脩一は黙っていた。頬は石膏のように血の気が失せ、唇は寒気でもあるのか紫がかっている。視線は頑なに目の前の一点を見つめ、奈美からすれば全体に柔らかな生きた感触といったものがなかった。
「熱でもあるんじゃないの」
 一瞬、脩一は顔を上げ、奈美を生気のある眼で見た。彼女もやっといつもの脩一にもどったと、自分の思い過ごしにホッとした。しかしそれは彼の次の行動で簡単に打ち砕かれた。
脩一はゆっくりとジャンバーのポケットから二センチほどの厚みの一枚一枚が容易に切り離せるメモ用紙を取り出した。一番上の真っ白な紙に黒のボールペンで書き始めた。奈美は呆気に取られていた。
早くもなく遅くもない、彼の微かな呼吸とともにすすむペン先を彼女はじっと見つめ、すべてが終わると、紙切れが乾いた音を立て、木目をすべるように渡された。脩一の右上がりの文字が僅かにぶれている。それにはこう書かれてあった。

 あなたの言葉は、僕にはとどかない。

 しかもそれに書き足すように、もう一枚が添えられた。

 あなたとは話せない。

 奈美は、最初冗談かと思い、その願望も込め笑みをつくった。それでも、知らず知らず頬は引き攣り、詰問する口調になった。
「話せないって、嘘でしょう。二日前に会ったばかりなのに。やっぱり、私のことを怒ってるんだわ」
彼女が一気にまくしたてる裏には、脩一の神経を刺激して、しゃべりだすきっかけをつくろうという思惑があった。言葉の出るタイミングさえつかめば、こんな芝居はいっぺんに崩れてしまう。奈美はあれこれ考え、片方では冷静さを取り戻そうと必死になっていた。
脩一はまたメモ用紙に書き始めた。

 あなたとだけは、話せない。

 そんな馬鹿な。奈美の苛立ちは頂点に達っさんばかりだった。なぜ、誠意をもって謝罪しようとしているのに、こんな目に合わなくてはいけないのか。これが冗談だとすれば、許せるものじゃない。しかし、だとしたらそんな取り返しのつかぬことを脩一が平気でするだろうか。奈美は彼の顔を改めてじっと見た。両瞼をかっと見開き、肩先の揺れは消え、微動だせず真剣そのものだ。ときおり眉を細め、歯がゆいように唇を噛み暗澹とした表情になっている。
 奈美は彼の真意がつかめず、湧き上がってくる不可解さをどうすることもできなかった。質問は当然のようにつづいた。
 「どうして、私とだけ話せないの?」
 彼がまたペンを持った。紙に向かい肘を動かすたびに、乾いた髪が数本、額から垂れ、瞼のあたりへ影をつくった。
あなたの心に、僕の言葉はとどかない。だから話せない。
そんなこと……。奈美はつぎの言葉をためらった。心に言葉をとどかせるなんて……。彼女の方こそ、自分自身の言葉を失いかかろうとしていた。
 奈美は目の前のメモの紙切れを手にしたまま、ならば、こうやって自分に会い、書いて伝えている意味がどこにあるのか、恐る恐る訊ねてみた。
 脩一の表情が一層俯き、苦悶の色が見受けられた。
 それでも彼は、しばらくして書き始めた。

 僕にもわからない。でも、あなたには会いたい。どうでもいいわけで はない。

 奈美には、矛盾と葛藤に満ちていながらもその文章は救いだった。彼にとって奈美がまったく興味を示さぬ対象ではなく、それなりの理解を共有したい相手であるということは、二人の関係を辛うじてつなぎとめるものだった。
 まもなくコーヒーがやってきた。脩一は口をつけず、奈美が一人、気分を落ち着かせるためカップを手にとった。脩一は返事をいつでも書けるように、メモ用紙をテーブルの真ん中寄りに置いた。
 奈美は、自分があれこれ見境もなく喋っては、そのたびに向こうも紙に書かねばならぬ労苦を思い、できるだけ気持ちを制御し、昔話の類や記憶の断片を語るにとどめた。そのうちに彼女自身も、確かに過去に似たことが、ある人物との間にあったことを思い出した。それは向こうに原因があったり、彼女に些細なきっかけがあったりもした。奈美の発した何気ない言葉が、予想外に相手を傷つけたこともあった。そんなとき奈美は、今と同じように歩み寄り、自分の気持ちを丁寧に説明することで修復を試みた。
 ならば、今、この状況をつくっている原因はどこにあるのか。奈美にある不安が訪れた。もしかして…。だが、この場ですぐに、表に出す気持ちにはなれなかった。
 睫毛が見える。数本の髪のかかった脩一の睫毛が……。
 そもそも、僕たち、めぐり会わない方がよかったんじゃないのかな。
 脩一は、二日目、奈美にそうつぶやいた。
 この世には出くわすべき人間とそうでない人間とがいる。秒針はいつも長針や短針とそれぞれ違う動きをするが、ときに何かの拍子で同じ位置で止まることがある。電池切れや故障といった偶然や必然が重なり、各々の意志とは関係なく、突然に静止してしまう。もちろん、どこでどの針と止まるかが大きな運命の別れ目だが、まれに、三本同時に、止まることもありうる。ただしそのときは、十二時という特別な位置しか用意されていない。
 脩一と奈美が出会ったのも、そこに脩一の父、宗治の存在を無視することはできない。彼が小学校一年に上がるとき、家を出て行った父親、その三人が十二時にふさわしいかどうかはわからぬが、確かに彼らにとっては特別な時間と場所で出会ったことになる。
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『伝言』・その二


 
 ピアノの正式名称は、「クラウィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ」。
 「弱い音から強い音まで出せるチェンバロ」という意味だ。
 一七0九年に、イタリアの職人バルトメオ・クリストフォリによって発明され、その後、改良に改良を重ね、一七八三年に、イギリスのジョン・ブロードウッドがペダルを考案し、音域も広がった。
モーツァルトの曲にペダル記号がないことから、彼がペダル付のピアノで作曲してはいなく、しかも当時まだ製造されていた黒鍵と白鍵の色が現在とは反対のものをある時期、使っていたとも言われている。
そもそも鍵盤の材料は、象牙と黒檀が用いられていたが、入手が困難なこともあり、人工物や合成樹脂が使われだし、肌触りや見易さなどから今の配置に落ち着いていった。
 もちろん、ピアノが徐々に市民のものになっていくには産業革命と、フランス革命に代表される市民革命、それに裕福なブルジョア層の出現が必要だった。つまりこの三つが長針や短針、秒針の役を担い、ある特別な位置で重なり合ったとき、ピアノは独自の道を歩んでいくことになる。
 なぜ、黒鍵と白鍵があるのか。七歳からピアノを習い始めた脩一は、そのことばかり考えていた。ピアノ教師に聞いても納得のいく答えは言ってくれなかった。材料の色がそのまま影響していたことを知ったのは、小五のとき、自分でパソコンで調べてからだ。だとすれば、どうして黒鍵を抜いたのか。やがて考えだしたのが、役割の入れ替えということだった。いったんシからドになるとき半音の位置が黒鍵から白鍵へ渡されることで、それまで黒鍵が果たしていた半音の上げ下げの役目が白鍵へと移り、黒鍵は白腱へ、白鍵は黒鍵へと姿を変える。そしてミとファの間に、再び黒鍵が消え、もとの役へもどるという寸法だ。    
 まるで黒と白の鍵が螺旋状にいったりきたりしながらぐるぐるとまわっている。
 脩一にとって、ピアノはいびつで立体的な生き物だった。
そんなピアノを父の宗治は遺品として残した。ご丁寧に黒鍵と白鍵を油性の塗料で塗り替え、しかもアップライトの開閉できる縦板にわざわざ細長い彫りで覗き窓を入れハンマーやダンパーの動きが見えるようにロココ調に細工までしていた。
 モーツァルトにでもなったつもりだったのだろうか。
 宗治は、付き合っていた女性が死んでから、彼女の形見のピアノを独学で弾き始めたらしく、十年後、肌寒い木枯らしの吹く去年の暮れ、五十ニ歳で死んだ。楽譜が読めなかった宗治は、いろんな冊子からコピーをとってきた譜面を切り貼りし、巻紙のように横に貼り付け、音符にはすべて読み仮名をつけ、広げれば横一列に見渡せるようにしていた。
一枚一枚には、わざわざ制作した年月日がつけられていて、作曲者だけでなく、演奏者の名前まで記されているものもあった。クラシックはベートーベンの『月光』に始まり、ショパンの『別れの曲』、リストの『ラ・カンパネルラ』。ジャズではセロニアス・モンクの『ラウンド・ミッドナイト』、ビクター・ヤングの『マイ・フーリッシュ・ハート』これはビル・エバンスもので、マイルス・デイビスの『マイルス・トーン』、マル・ウォルドロンの『レフト・アローン』、デューク・エリントン楽団の『テイク・ザ・Aトレイン』に至っては即興の部分も含め、ちょうど一七十五センチ、まるで計ったように脩一の背丈とおなじ長さだった。
 脩一は、宗治が最後に暮らした掘っ立て小屋の床にそれを敷き、CDをかけ、横に寝てみた。築二十年たっているため、腐りかけた柱や根太が風が吹くたびに軋み、耳障りだった。目の前に並んだ四分音符や八分音符がパラパラと崩れていく。足先から頭までブルックリンからハーレム、マンハッタンへとパンタグラフに火花を散らした地下鉄が走りぬけていく感覚とは程遠い。
 ポップスは数限りなく、ビートルズの『ヘイ・ジュード』『レット・イット・ビー』『ノルウエイの森』に始まり、『イマジン』といったいかにもイントロがピアノ曲のナンバーや、レイ・チャールズやビリージョエルといった弾き語りに加えクイーンの『ボヘミアン・ラプソディ』まであり、歌謡曲、童謡まで入れるとその数は百二十曲。ピアノの上に色褪せた外紙を晒し赤煉瓦で抑え込まれ、窮屈に並べられていた。
 一年で十ニ曲、ちょうど一と月に一曲をこなしていったことになる。
 もちろん、宗治がそれらを全部弾けたはずはなく、とくにクラシックなど不可能といっていいはずだ。それでも、読み仮名がうたれた楽譜の中でも、『ラ・カンパネルラ』の最終章あたりは、僅かな隙間に音符と重ならぬよう鉛筆の芯で細めに音階が埋めこまれ、感動的すらあった。
もしかすると父は仮名をふることで演奏した気になっていたのかもしれない。そんな憶測が脩一の胸を過ぎると、一音符残さず、独特の楽譜がつくられていった理由がわからないわけでもない。
 山小屋は脩一にとって記憶にあるものだ。
 小学校の一年から四年まで、ちょうど小屋ができた翌年から四年間、夏休みになると一週間ほどを過ごすのが慣例だった。
「せっかく、お父さんが来いって言うんだから、行ってきたら」
両親が離婚し、どこか、父の話がしずらかった空気の中で、母の琴絵は、さりげなく言葉をかけた。
 軽自動車が離合できるかできないかの細い林道を一番手前の集落から二キロほど上ったところにぽっかり空いた十五坪ほどの土地にそれはつくられていた。山腹を削ることもなく、道から十メートルほど入り込んだやや傾斜した敷地は杉林に囲まれ、日差しもさほどない静かなところだ。
 山小屋が近づくにつれ、助手席の脩一はひさしぶりに父と会える喜びと同時に、いつも不安に駆られた。
 すぐ耳元で烏の鳴き声がした。ときおり梢を揺らし、生き物が枝を伝っていくのがわかる。鬱蒼とした林は葉の一枚一枚、脈の一筋一筋に湿気を帯び、夏だというのに肌寒かった。
 車窓から道沿いの土手を覗くと、褐紫色の不気味な花が何本も顔を出していた。正式名はマムシグサで地元ではヘビジャクシと呼ぶのだと宗治が教えてくれた。コブラの頭のような部分は花びらでなくつぼみをつつみこむ葉で、宗治はわざわざ車を止めて、ほら、これも同じだと黄色い花穂をつつんだドクダミの白い部分を指差した。
 それからおもむろに車から降りるよう脩一を促し、宗治はふざけたように大きな声を上げ、マムシグサの斑模様の胴体めがけ蹴りを入れた。するとあっけないくらいに簡単に茎は砕け、頭部と外壁は空中へと飛び散った。脩一も、宗治を真似、勇ましい掛け声をだしながら次々と苞を目掛け蹴り上げた。股関節が素早いスピードで真横へ移動すると、いかにも空洞といった脆い感触を靴先に伝え、シリコンのような皮が飛び散っていった。数メートル先を見ると、布切れのようにぐにゃっとした残骸がいくつも散在していた。
 小屋は、ほとんど荒削りの杉材を組んだだけの、ログハウスというにはお粗末なつくりで、木と木の隙間はセメントのようなものでふさがっていた。八畳ほどのフロアに台所があって、玄関から入ってすぐ横には中古で手に入れたらしい古いユニットのトイレと風呂が嵌め込まれ、浄化槽が埋められていた。水はボーリングして地下水を掘っていて、ポンプ小屋だけは基礎もコンクリが打ってあり、小屋よりもよほどしっかりしたつくりだった。当時、ピアノには何の細工もされておらず、もちろん鍵盤も普通の色の配置だった。脩一は、すぐに今習っているものや発表会のためのディズニーの曲などを弾いてみせた。宗治もそれがうれしいらしく、鼻歌交じりにいっしょにリズムをとってくれた。
 窓を開け、空気を入れ替えると、いつも事前に買い込んであった材料を使い、宗治が食事をつくった。脩一が麺類が好きだったこともあり、卵焼きやキュウリをそえて、中華そばやソーメンを手際よくだしてくれた。
 日が暮れかかると、部屋では、いつもは宗治の分だけかぶせてある蚊帳を全部広げ、そこへ布団を二つ並べ、脩一に好きな方をあてがった。網戸が破れていたため、隙間から虫がしきりに飛んできたが、山の高度や独特の地形が関係してか、カブトムシやクワガタなど大型の昆虫は皆無で、少し小型のカナブンや耳障りな声で鳴く真っ黒なカミキリ、枝毛のような脚で覆われたゲジゲジ、それに何度嗅いでも吐き気がしそうな匂いのカメムシといった、脩一にとってほとんど魅力を感じぬ虫ばかりが羽音を立てたり、這ったりして壁や窓際に出没した。宗治は平気で素手で払ったり、捕まえ、外へ投げ捨てた。
 夜の帳に包まれ、静けさだけが深々と迫ってくる頃、流れ星がときおり夜空の闇を横切った。寝たままの姿勢で縁側に目を向けた脩一が驚きとも興奮ともつかぬ声で、一本の光線を指差すと宗治は残念そうに首を横に振り、人工衛星であることを教え、光線の発し方や飛び方の違いまで説明してくれた。
 小学五年から、部活でサッカーを始めた脩一は、六年になるとピアノをあっさり止め、夏休みは練習や試合で忙しくなり、山小屋へも行かなくなった。宗治からの週に一度の電話も二週間に一度から、やがて月に一度へとかわり、高校に入った頃には半年に一度、学年の始まりや季節変わりに様子を尋ねるくらいになった。逆算すれば、その年に女性は死んだことになる。連絡が極端に減った時期ともちょうど重なっている。
琴絵が、その当時、そういった事実をどれほど知っていたかは、直接聞いたことがないので今もってわからない。
posted by あそびと at 03:56| 熊本 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ノベルでのべる・第十編『伝言』(2008年作) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『伝言』・その三

 三
「自分で決めなさい。どうするかは」
 警察から宗治の死を知らせる連絡がとどき、脩一宛の遺書が残っていることがわかったとき、琴絵はまったく動じた素振りを示さず、電話口でそう告げた。
「あなたも二十六になったんだから、自分で行って確かめてくるのね」
 警察の安置所は、一階奥の冷えきった廊下の突き当たりにあった。
扉を開けると、白布が被せられた遺体の横に、すでに一人、脩一より五つほど年上ではと思える女性が立っていた。脩一は、形ばかり御辞儀をし、薄いビニールシートの敷かれた安置台に近づいた。
 係りの職員が布をめくると、土気色をした物言わぬ宗治の顔があった。浮腫みのせいか脩一が覚えている顔より、ややふっくらとしているように思える。髪の毛にはずいぶん白髪が増えていた。両目を閉じているので二重の大きな眼差しはわからないが、眼尻から頬、口元にかけての輪郭が確かに宗治であることは間違いない。そう思ったとたん、十数年前の山小屋での風景が甦り、込みあげてくるものがあったが、脩一はじっと耐えていた。
「父です」
 精一杯、声を振り絞り、職員に答えた。
「入浴中に脳梗塞をおこされたようですね。水はさほど飲んではおられません。ただ、血液中から多量のアルコールが検出されました」
 脩一は宗治の血管の内部を思い浮かべた。醸造された酒の成分が淀みながら、ふつふつと醗酵し細い管の中を押し流されていく。やがて何の前ぶれもなく凝固した血栓によって生命の持続に終止符が打たれると、熱は冷め、細胞が壊れ始める情景を虚しく想像していた。
「それと、体が硬直してしまっていて」
 我にかえりハッとして、再び遺体に目を向けた。
 確かに膝の辺りが九の字に折れ曲がり、布が小山のように盛り上がっている。ユニットの小さな浴槽にちょうど収まる格好だ。じっと見ているとさらに克明に死の直前の風景が甦るようで、いたたまれなくなり、それでも数秒、対峙し、もう充分というようにまた軽くお辞儀すると、了解したように白布が乾いた音を立て被せられた。
「自殺、ですか」
「それは、なんとも言えません。ただ、飲酒後のこういった事故はよくあることですし、薬物反応も出てこなかったことからすれば、きわめて可能性は薄いですね。でも死後二日で発見されたのは幸運ですよ。腐敗もさほどすすんでいませんでしたし」
「だれが見つけたんですか」
 職員はそこでしばらく間を置き、「麓の方がちょうど散歩されていたんです」と事務的に答えた。脩一はもう少しつっこみたかったが、今さら詮索してもそれ以上のことはかえってこない気がし、引き込めた。
「ああ、それと遺書ですが、日付を見るとずいぶん前に書かれているようですね。現場検証のとき、台所の引き出しから出てきました」
予断は挟ませないとでもいうようなきっぱりとした口調だ。
「それでは、事務所で持ち物と遺体の引き取りの手続きをしていただいてよろしいですか」
修一が、その声に従い前へすすむと、隣にいた女性もいっしょについてきた。
訝しく思いつつも、まだ話しかけるには早すぎるような気がし、脩一は様子をうかがっていた。
接客用のソファに座り、二人は、まるで息を合わせたように、そそくさとお茶を用意する女性職員をちらりと見た。
「ちょっとお待ちください」
担当の職員が保管庫に出掛けた隙を見計らうように、最初に尋ねてきたのは、女性の方だった。
「もしかして、脩一さん、ですか?」
「……」
「私、吉野明子の娘の奈美と言います」
 相手の口にした母親の名前を聞いたとたん、脩一のふさいでいた心は一瞬どよめき、すぐに落ち込んだ気になった。宗治が付き合っていた女性、仕事もやめ、家族とも離れ、あの小さな山小屋へ出て行くきっかけをつくった女性、それが吉野明子だった。
脩一は、いつのまにか奈美を、明子本人であるかのようにじっと見つめていた。
 職員が差し出した遺書は、一枚のB4の白い用紙に、数行、太めの文字で書かれてあった。楽譜を切り張りするのに使っていたのと同じだ。正式に書いたというより、練習のため下書きしたふうでもある。
葬儀は一切不要であること、自分の遺体の処理は、銀行に預けてある金を使ってやってほしいことが書かれてあった。渡されたものには同じ引き出しに入っていた通帳もあって、額は三十万をちょっと超えていた。
「遺体の方は、どうされますか」
「できれば、こっちですべて終わらせたいんですけど」
「わかりました。お父さんの住民票はこちらにあるようですので、早目に死亡届けを出していただいてよろしいでしょうか。役場にはここから連絡して、明日、火葬ということにしときますので。それまでは安置しておきます」
 脩一は、遺書に、また目を通した。
 最後にこう書かれてあった。
 小屋は、吉野奈美に、ピアノは関本脩一に相続する。
 奈美にも連絡された理由が、それで解けた。
 職員がすぐに手配してくれたこともあり、翌朝八時半に村営の火葬場の車が迎えにくることになった。
「ピアノは、母が持ち込んだんです」
「ええ、そうでしょうね。父はまったくやっていませんでしたから。でも、そんな大切なものをぼくがいただいていいんでしょうか」
「あなたのお父さんが望んでるんですから、それでかまいませんわ」
その後、二人はお互い考え込むように黙りこんだ。
すべての確認が終了すると、職員から、現場検証もすんでいるので小屋に入っていいという了解と合鍵のついたキーホルダーをいっしょに受け取った。発見者にも、早目に礼をいっておくべきだという忠告をもらい、住所と電話番号の書かれたメモが渡されたが、脩一は気が重かった。
「私は、これから見つけていただい方のお宅に挨拶にいこうと思っていますけど……」
 警察署を出ると、奈美が小さな声で話しかけた。
 脩一は、黙っていた。
「もしよろしかったら、いっしょに行かれませんか……。実は、この近くに、ほんのちょっとですがお付き合いのある人がいて、昨日、警察から連絡をうけてから、事情を聞いたんです。発見者の方にも、今日うかがうことは知らせていますから、きていただけたら……。それに私も、正直言うと、二人の方が心強いし……」
そこまで言われ、脩一も相手の手回しのよさに驚き、従わざるをえなかった。彼の車は駐車場に置き、彼女の車で向かった。
運転しながら奈美の話たところによれば、宗治の死体を最初に見つけたのは、人ではなく、猟が解禁になり辺りをうろついていた首輪に送信機のついたビーグルだそうだ。
「やっぱり、向こうも犬とはいえないでしょうしね。でも、それって、これと同じことですよね」
 彼女はハンドルを握った片手を離し、カーナビを差した。土産に、ちょと割高だが、自然食のドッグフードを買ってきていることを教えてくれた。
「無添加で人が食べても安全なんですよ。犬もずいぶん偉くなったとは思いませんか?」
 奈美の話しぶりを聞いているうちに、彼女が、二人の親との関係から生まれた一連の事件を、さして深刻ぶっていないことが感じられ、脩一は少しばかり拍子抜けした気になった。もしかすると、人目見て年下と判断した彼女が、脩一の余裕のなさと強ぶりに気をきかしていることも考えられたが、とりあえず彼としては有難かった。
 目印だという割れたカーブミラーを右に曲がりしばらくいくと、新建材と丸太を組み合わせた薄茶の壁の家が、集落の一角にあらわれた。呼び鈴を鳴らし、出てきた男は脩一が勝手に想像していた精悍さとは程遠い、むしろ華奢な体つきをしていた。
 簡単に自己紹介しお礼を言っていると、匂いを嗅ぎつけたらしく、裏から白と黒の斑な犬が走ってきた。いいタイミングとばかりに奈美は手にもっていたビニール袋を相手に手渡した。
 ラッキーという名のメスのビーグルは少々肥満気味で、そのときはふつうの首輪をし、ササミのジャーキーを貪るように食べた。湿気があるせいか、ニンマリと微笑む男の頭上と無防備な犬の鼻先を小さな羽虫がうるさそうに飛んでいた。どんよりと曇った初冬の午後にふさわしい肌寒い空気がひっそりと周囲を包み、鼻を突っ込んではアルミ皿を盛んに動かし咀嚼する音のほか何もしない。この男だったら自分は散歩に出ず、狩猟目的で開発された器材をうまく使って、犬だけを運動させていたことだって充分考えられる。
 脩一は、早くその場を立ち去りたい衝動に襲われた。
「私は、これから仕事なので、山小屋は明日、行くことにしますけど」
この道をまっすぐに行けば小屋へいけるという林道の角で車を停めた奈美は、さりげなく言った。
「脩一さんはどうされますか」
「ぼくは、ちょっと見ておきたいんで……」
「そうですよね……じゃあ、一度、警察署までお送りしますね」
車から降り立つと、奈美は名刺をくれた。情報メディア産業・フェニックスと書いてあり、代表の肩書がついていた。
「小さな出版社っていうか、印刷の請負いみたいなものです」
奈美は、風で乱れようとする髪を軽く右手で押さえながら、微笑んだ。
「あの、今日はいろいろ、お世話になりました」
 車のドアに手をかけた彼女に、脩一は申しわけ程度にぼそぼそっと言った。
「いいえ。こちらこそ……」
 脩一は、相手の視線が彼の車の前扉のシールに向かっているのを知り、自分から、
「パン屋をしてるんです。いつ潰れるかわかりませんけど」
 出会ってから初めて、和やかな顔になった。奈美も合点したように頷き、脩一の表情で踏ん切りがついたのか、一旦ドアから手を離し、訊いた。
「明日の火葬に同席させていただいてもよろしいでしょうか」
「ええ、かまいませんよ」
 脩一は、迷わずに返事をした。彼女がドアを閉める音で急に思い出したようにジャンバーの内ポケットを探り、窓からあるものを差し出した。修学旅行で買うようなイニシャルを縁取った金属がついている。
「渡しそこねるとこでした。鍵は、あなたがもっておくべきものですよね」
「でも、一つはそちらが預かっていてくださいません?」
「ありがとう」
 排気音が路面に鳴り、車が出発すると、いよいよ脩一はたった一人、森の中に取り残された気になった。不安だった幼いころの山道や人影に見え脅えた赤土から剥きだした木株が思い出され、無事、小屋まで辿りつき、鍵をあけられるかどうか心配になってきた。名刺と合鍵を再び内ポケットに入れ、溜息のかわりに深呼吸を一度大きくし、修一は山小屋を目指して、今来た道を引き返した。
posted by あそびと at 03:54| 熊本 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ノベルでのべる・第十編『伝言』(2008年作) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『伝言』・その四



 検証で多少、荒らされた跡の残る室内ではあったが、しばらく中にいた脩一は、意外にも少し気が楽になった。
アップライトの上に積まれた切り貼りの楽譜とピアノそのものの変化は思いがけなかったが、家財道具のひとつひとつがどこか記憶にあるもので、馴染み深い空気を醸していた。落とされていたブレーカーを上げると電気も繋がり、置いてあったラジカセでCDを聞いたことも大きいかもしれない。
 サッカーを始めて以来、十五年ほどご無沙汰になっているピアノも叩いてみた。
 黒鍵と白鍵が入れ替わっているため弾きにくく、思わず苦笑してしまった。まるで屋根と床が逆さまの家へ迷い込んだみたいだ。とりあえず、脩一も知っている『ヘイ・ジュード』をやってみた。
 Fの転回形のラドファを叩いてみる。ラの両端と、ドとファはそれぞれ右上に白鍵がきている。黒鍵だと、白鍵の圧迫を感じるのはG、B、Eのフラット、それにCのシャープだ。Eのフラットを基点に叩けば、Eフラットマイナーセブンを弾いていることになる。
だがそれも脩一のかってな思い込みが大きかった。色を入れ替えてみても決定的に動かないのは前後の配置と起伏の構造で、表面的な色彩に慣れればさほど難しいことではない。気を楽にして、C、Cセブン、F、Bフラットと黒鍵と白鍵を跨ぐコードに入ってみた。二度、三度、くりかえし同じフレーズを叩いてみる。ポールがシャウトし、ジョンが、リンゴが、ジョージが合唱するダー、ダー、ダー、ダダダッダーのサビの部分、FからEフラット、Bフラットへと移行していく、激しく高揚する場面だ。すると、指先から掌、肘、視覚に微妙な変化がおとずれた。つくりだされる聞きなれたリズムが底潮のように溢れ、変わらぬと思っていた鍵盤の構造上の凹凸や前後の位置関係が、突然、そのまま自分の肉体がすり替わるように移動した。逆方向、つまり後ろからピアノに向き合いキーを叩いている感覚がやってきて、肉体がハンマーや弦といっしょにピアノの一部となり、ロココ調の板の隙間から手を伸ばし、フロアへ向かって弾いている奇妙な倒錯感が襲いだしたのだ。最初、物珍しく不慣れな体験からくることを重々承知でやっていた脩一だったが、その変化は驚きだった。しかし、それとほとんど同時に動いていた指を力なくしなだれさせ、演奏をやめてしまった。
 脩一に噎ぶような感情が込み上げ、胸が一杯になった。
 小屋の外では、クヌギから落ちた枯葉が、地面の乾いた土の表面を重たるく舞い、風がときおり縁側のガラス戸の隙間から音をたて唸っていた。スギナの繁茂が土手際から徐々に迫ってき、光の差さない空間の中で、荒れた芝のようになっていた。
脩一は、その日は山小屋に泊まらず、一番近くのビジネスホテルに宿をとった。
 翌日、鈍よりとした曇り空はそのままで、相変わらず、底冷えした天気だった。地元の人によると、そろそろ雪になるだろうということだった。
 火葬を終え、白布の遺骨を手にした脩一の隣で、奈美はあれこれ気を回し、職員らに礼を言ったり、準備してきたお礼の粗品を配っていた。
 「ごめんなさい。余計なお世話かなとは思ったんですけど……」
 紙袋に入った黒い紙で包装された薄い小箱を十個ほど見せられ、前もって確認をとられていたが、彼女の甲斐甲斐しく動く姿は、充分過ぎるほど胸を打った。
 親のしでかした痴話物語の片付けをしている身内を憐れんでか、大方の人が好意的に接してくれた。もしかすると、長く生き別れになっていた姉弟のように見られていたかもしれない。それほどに奈美は脩一に対して、壁がなかった。
 帰りに彼女の誘いで個室のある和食のレストランに入った。
畳敷きだが、掘り炬燵のように膝が落とせ、楽なつくりだ。足元には電気ヒーターと薄いベージュの絨毯が敷いてある。それぞれランチを注文すると、しばらく窓の外の景色をぼんやりと見た。
紅葉を過ぎ、あちこちに湿った葉をへばりつけた楓の下に小石が積まれ、水無し川のようになっている。夜になると明かりが灯るのか、竹を割って細工した灯篭も二つ三つ、置かれていた。
「遺骨はどうされるんですか」
 笑顔をつくりながらさり気なく聞くその質問に、脩一は、奈美が最も確認したかった核心があると思った。
「供養してもらうお寺が決まるまでは、当分は、ぼくのところに置くことになると思いますが。父は実家が嫌いでしたし」
「そうですか……」
 予想に反し、あっさり引き下がった相手に、むしろこだわったのは脩一の方だった。
「そちらはどうされているんですか」
「えっ」
 小さな驚きの声だ。
「あなたのお父さんに分骨してもらったものを、一応、私が供養してます」
「じゃあ、あの小屋のどこかにもう一つ、あるかもしれないんですね」
「ええ。それもだけど、あんな二人だから、竹藪の中にでもお墓をつくってることだって考えられるし」
 奈美は、つい自分が口を滑らしたことに、バツがわるそうな顔をした。
「あっ、ごめんなさい。私、そういうつもりじゃ」
「いいですよ。ぼくも似たり寄ったりの気持ちだから」
 二人、出会ってから初めて、気が合うように微笑んだ。
 お互いに打ち解けてきたこともあってか、これまで避けてきた質問や話題になった。
「実は、ぼくは、あなたのお母さんには、会ったことがないんです」
「写真だったらありますけど、見ます?」
 そういって、ハンドバックから手札額を取り出した。はがき大の写真が嵌まっている。背景は真白で胸元からの写真だ。
「死ぬ一年前で、五十三のときのです」
髪は、セミロングで、毛先が片口でやや跳ねている。全体にふんわりし、少し染めているのかブラウンがかっている。その下で、面窶れもない肌艶のいい顔が、微笑している。いかにも穏やかそうで、十は若い印象があった。左手で今植えたばかりなのかピンクの花の咲いた小鉢を顔のあたりに持ち上げていた。
「少し修正してますけど」
「どこをですか」
「背景です。だって……」
 そこで奈美はクスッと笑い、
「山小屋の前で、オートで撮ったみたいなんですけど、あなたのお父さんが猿のマネをして、横から顔をだしてるんですもの」
 「猿? 父が……」
脩一は、意外な話に戸惑いを隠せなかった。
「ええ。あの辺りには猿が出るらしいんです。ずいぶん前に畜産関係の人が客寄せで十匹くらい飼ってたのを、事業が難しくなって逃がしたらしいんです」
「それが増えたんですか」
「今ではかなりの範囲を季節季節に群れで移動しているみたいだって、母が話してくれてました」
 それにしても宗治のおどけた顔が白く修正された向こうにあることがわかると、それまでただの人物写真と思っていたものが違ったものに見えてきた。脩一は写真から視線を逸らし、再び庭園に目を向けた。猿が出るには程遠い人工的なつくりの庭が佇んでいる。それは、彼にとりむしろ親しみのある風景だ。
 食事はひと品ごと小さな器に上品に盛られていた。取りやすくするために先が細く研がれた箸を使うと意識が集中でき、昨日からのことがしばらく忘れられる思いがした。
       
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『伝言』・その五

  五

「不思議ね。私たちも十ニ違うだなんて」
 五歳ほど上と思った奈美は、彼より一回り多く、三十八歳だった。宗治も三十三のとき四十五歳の明子と出会っている。
 マンション九階の奈美の自宅兼職場は、ときおりベランダに鳩が舞い下り、餌をやってはいけないため、跳ねるようにすぐに向かいのビルの屋上へ飛び去ってぃく。
相続を受けた山小屋やピアノをどうするか話し合うため脩一はやってきていた。
 二人が出会ってから二週間がたち、年の瀬が迫っていた。
「もうずいぶん古いし、それに女一人では、ちょっと泊まるにも物騒でしょう。よかったら脩一さんが引き取ってくれたらと思ってるですけど」
「僕も、どれだけ管理できるか、自信がないな」
「石窯なんかつくって、あそこで焼いたらけっこう評判になるんじゃないかしら。水もあることだし」
 パン屋は友人と二人で始め四年目を迎えていた。今はその相手ともいろいろとあって、別れている。学生時代、といっても脩一は三年で中退し、一年ほどパン職人の見習いをしたのだが、そのとき以来付き合っていた沙希という女性だ。
 沙希は脩一の準備期間を待つ形であれこれ動いてくれた。まず倒産物件の店舗を安く借り受けることができたのは土地家屋の調査士に知人がいた彼女の力に負うところが大きい。そこで脩一が手ほどきを受けた店の主人のつてでかき集めた中古の器材を使い、オープンさせた。彼女がいなくなり、早くも一年になる。
 今は細々と十種類ほどのパンを焼き、固定客で希望があるなら配達もしながらどうにか凌いでいる状態だ。材料費や光熱費、それに家賃を引くとほとんど残らない。
「水は保健所で調査してもらわなくちゃいけないんですよ。最近は厳しくて十項目くらいのチェックがあってね、営業に使うにはまず無理だと思うな」
「さすが、詳しいのね」
「あのあたりは、火山灰質でフッ素が濃い可能性が高いし」
「飲んでみたの」
「実は……」
 脩一は、小学校のときの山小屋体験や、いつも宗治がポリ缶に飲料水を用意してきていた話をした。
「水の説明は、父の受け売りです」
「へええ、驚きね。母はそのことは教えてくれなかったわ。けっこう、山の中で暮らすのってたいへんなのね」
「けっきょく、二人は何年住んだんですかね」
「ちょうど十年じゃないかしら。母が祖父からもらったあの土地にいっしょに暮らせる場所をつくろうって、借金までしてつくったみたい。あなたのお父さんが出てきたときは完成していて……癌にさえならなければ、まだいっしょにいられたんでしょうけど」
 そこで奈美は、事務所の隣の部屋に設えられた仏壇を見た。瀟洒な一段一段、前開きの茶箪笥の上に、質素なつくりの仏壇が置かれ、遺影や花がかざられている。写真は脩一が以前、レストランで見せてもらったものと同じだ。拡大してあるだけに背景の白がやけに目立つ。
「あっ、だけど、お金のことは気にしないで下さいね。あくまでもそれは二人の問題だし。それに十年だけでも同じ屋根の下で暮らせたことを、娘の私も嬉しく思っているんです」
 知らず知らず俯きかけていた脩一に奈美が気転を効かし、軽い口調で言った。脩一もそれに応えるように顔を上げると相手を真っ直ぐに見つめた。
「奈美さんは、お母さんといつまでいっしょに住んだんですか」
「高校までよ。運良く現役で大学に受かって、八つのとき離婚した父の養育費はそのまま私の通帳に振り込まれる形になっていたの。それで、卒業までは、たりない分をアルバイトで補って、どうにかやってこれたわ」
「びっくりだなあ。ぼくは七つで母子家庭になったけど、そこまで似てるなんて」
 濃紺の鳩がベランダのフェンスに舞い降り、クークーッと一声鳴き、二人を見た。
「なんだか、気持ちわるい感じですね」
 仏壇とべランダを交互に見くらべながら、脩一はつぶやいた。
「そうかしら。私は楽しいわ」
 その一言に、彼は予想以上に相手が親しみをもっていることを感じ、内心落ち着かぬふうで、ドギマギした。
山小屋の件は、とりあえず結論が出ないまま脩一はいったん店に帰った。いつもの習慣でパソコンのスイッチを入れ、画面が映し出されるとメールのチェックをする。
 送受信を押すと、こんな言葉が出てきた。

まだ、むりなようです。いつか、われるようになりたいです。

 沙希からだ。数週間前から、ときどき送られてくるようになった。脩一とパン屋を始めた女性だ。彼女が言っているのはパン生地に使う有精卵のことだった。
 脩一は材料にこだわり、卵は雛のときから餌や飼育環境に配慮した有精卵を仕入れた。洗卵されず、ときどきノコクズや薄緑の干乾びたフンが殻の表面についてきた。卵にはクチクラ層という肉眼では見えない薄い膜があって、洗うとその膜がはがれ雑菌が入りやすくなる。それに呼吸のための無数の穴もあいており、侵入した菌がアトピーの皮膚炎を引き起こす原因ともなりかねない。陽に焼け、額に深い皺を刻んだ四十半ばの農園の主人はケージから広々とした庭へニワトリを一羽出すたびに、熱心に説明してくれた。もちろん市販のものより割高だったが、脩一はその徹底ぶりが気にいり使っていた。
 ただ、有精卵につきものなのは、とどき生命を宿し数日たったものにぶつかることだ。
「わっ、何これ」
 沙希は、初めて卵黄に細い血管網が浮き出たものに遭遇したとき、殻を割ったまま脩一の眼の前に突き出した。
「やっぱり生きてたんだなあ」
 脩一は、むしろそれが証明されたように、感嘆した口調になった。だが沙希の眼差しは違った。じっと割れた卵を見つめ、暗い光りを抱え悲しげになった。硬直したように動かぬ相手から脩一は殻を奪うように引き取り、赤く染まった卵黄をアルミ皿に移した。血管の網はくずれ、中心にいたはずの雛の胎児も羊水といっしょに濁ったぬめりとなってまざりあった。流しに捨てるにも忍びず沙希の様子も気になったこともあって、外の小さな花壇の土を堀り、かぶせた。
「体にわるいものじゃないんだろうけどね」
 沙希は黙ったままだ。
「あとは、俺がするよ」
 その日から、卵の担当は脩一に移った。
 それからだ。沙希に微妙な変化が訪れたのは。
「こんなものつくったんだけど、どうかしら」
 彼女は積極的に脩一がつくったレシピから外れ、自分なりの考案でパンをつくるようになった。脩一も新作の意欲は買ったが、ただし決定的な問題があった。どんな分量で作ったのかその記録を残さないのだ。
「レシピをつくってもらわないことには、生産にはうつせないよ」
「あら、どうして? 私が頭の中でだいたい覚えているからそれでいいんじゃない」
「じゃあ、君がいないときはどうなるんだ?」
「つくらなきゃいいでしょう」
 脩一は、そこでいつも言葉を失いそうになった。それでも自分なりの考えを説明することはやめなかった。
「ぼくはこう思うんだよ。君のパンはなかなかにおいしい。それを趣味じゃなくて仕事にするんなら、ちゃんと分量を書いて、君以外の人もつくれるようにしとくことが必要じゃないかって。そうやって、いろんな場合も想定して、求める人にできるだけ的確に応えていくことがパン屋をやることじゃないのかなって」
 沙希がいなくなったのはそれから数日してからだった。簡単な置手紙が残された。

 ごめんなさい。あなたの言ったことをずっと考えていました。一つ一 つが、もっともで、その通りだと思います。でも、私の中にどこか、 そうじゃない、そうじゃないんだって言いつづけている部分がありま す。あの卵を割ってから、何かが狂ってきたような気がします。レシ ピどおりつくることも、やんなきゃと思うんだけど、どうしてもでき ないんです。その日そのときの自分の気分や思いつきで砂糖や塩やバ ターを計って、季節季節の果物をすりつぶして混ぜたりペーストした り、オーブンの温度を頃合いを見ては適当に上げ下げしたりする作り 方しかできません。けっきょくは商売には向いていないのでしょう  ね。ごめんなさい。しばらく一人にさせてください。    沙希。
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『伝言』・その六

 六

 杉ばかりと思っている土手も、一歩上がると下草がはびこり、年を越し一段と勢いが衰えたとは言え、刺のある蔦や茎の枝がズボンや靴下の布地に絡み、まとわりついてきた。それでも枯れたものは踏みしだくと心地いい音をたて折れ曲がり、通り道をつくっていく。
「やっぱり、こんなところにはないんじゃない」
「探そうって言いだしたのは、そっちだよ」
 新年を迎えた最初の日曜日、脩一と奈美は山小屋の正面から土手を登り、周囲の林をかれこれ二時間近く歩いていた。たまに股まで入りそうな穴に足がはまって前のめりになりそうなり、両手でバランスをとりどうにか持ち堪えた。
「気をつけてね。山芋を掘った跡があるから」
「そんなことまでやってたのかな」
「とりにきたのは、地元の人よ」
「だろうね」
「それにしても、大雨のときなんか、よく崩れなかったね」
「傾斜がそんなに上までつづいていないからだとは思うんだけど」
 確かに、見上げると杉と杉との隙間には蒼空が透かして見え、勾配はそこで途絶えている。土手の頂の木をすべて切ってしまえば、向こうは見晴らしのいいなだらかな平地のようだ。それは二人が実際に、今日歩いてみてわかったことでもある。
 それでも脩一は、意外に奈美が山小屋について詳しいことに気づかされた。
 山中での陽の翳りは想像以上に早い。太陽も杉木立の向こうへ姿を隠し始め、初春ならではの肌寒い風が一陣どよめくと、冷たい空気が一気に辺りを包みこみ始めた。天気のいい日をねらって、午後から始めた墓探しの行為もそろそろ見切りをつけねばならないときがきていた。
風を通すため開けていた縁側のガラス戸から、それぞれ疲れたように靴を脱いで中へ入った。何の収穫もなくぐったりと肩を落とした二人が、ほとんど同時に顔を向けたのピアノだった。
「まさか……」
 脩一は、つぶやくや否や這うようにアップライトの下へすべり込んだ。
 ペダルにかぶせられた部分が手前に開くようになっている。
 バネ式になった金具を押さえ、丸い取っ手を引くと一センチほどの厚さの板が重々しく動き、弦や響板の一部が外にさらされた。すると、右下隅のちょうど空いたスペースに無地の青磁の壺とその横に三十センチ四方の段ボールの箱があらわれた。やや薄めの色のその壺は、部屋の光を真正面に受け、艶やかに照らしだされているように見える。片手でつかめるほどの大きさではあったが、脩一は慎重に両手で捧げ持ち、奈美に渡した。
 奈美は、頭部がさらに小さな円形で縁取られた蓋を静かに開けた。そこには、確かに乾燥した白い骨の一部がつまっていた。
奈美の瞳が瞬く間に湖面のように濡れ、そこから一筋、頬を伝い落ちた。予想外の展開だった。脩一は、彼女から感情の波が引くのを待って、次に段ボールの箱を差しだした。
訝しげに見つめ、心当たりがまったくないというように小首を傾げる彼女の瞳はまだ滴で光っている。もどかしげに、脩一が箱のガムテープを剥がし始めた。
 テープといっしょに表面が破けた蓋をめくると、ビニール袋につつまれた布切れのようなものが出てきた。恐る恐る結び目をほどき中を見た。人体から発せられてくる匂いとも、微かな熱ともつかぬものが鼻先へ立ち上ってくるようだ。ひと目見て、血痕とわかる赤い染みが襟元についた白いブラウスがあった。人体ではない、釘のような鋭利なもので引っ掻き、切り裂かれた女性ものの下着、傷口をぬぐったのか、からからに乾いたタオルもあった。宗治と明子との間に何があったのか、修一は想像しただけでも怖くなり、それ以上静視できなかった。
「まさか、君のお母さんを殺したんじゃ」
 無意識にか、小さくつぶやくと、奈美は噴き出し、鼻にかかった声で言った。
「そんなはずがないじゃない。母はちゃんと十年前に病院のベッドで死んだのよ。膵臓癌だったわ。発見が遅れてしまって……。あなたのお父さんと私で看取ったんだから」
 彼もそのことは知っていた。
 そもそも明子という女性の名を脩一が知ったのは、中学に上がるとき、一通の手紙が彼宛てにとどいたからだ。封筒には差出人の名前はなく、中を開くと、これまで自分のために、あなたへさみしい思いをかけたことを詫びる文面と、今も心から申し訳なく思っていること、それに父を弁護する言葉が書いてあった。そして最後に改行し、吉野明子としたためてあったのだ。脩一は琴絵には見せず、今でもいつも持ち歩くバックの中に仕舞ってある。それから四年後の高校一年のとき、今度は明子の死が、父から送られてきた手紙で知らされた。それはワープロを使ってあり、最後に宗治の名があった。お母さんにはちゃんと別の手紙で知らせているから心配ないこと。息子のお前には事実を伝えておきたいからこの手紙を書いたと記されてあった。
「あなたのお母さんは、ずっとぼくのことを気遣ってくれてたんだ。そのことはわかっていた」
 脩一は、奈美と会ってからいつか明かそうと思っていたことを、このとき初めて告白した。
「あの人だったら、そんなこともしたかもしれないわね……」
 奈美は珍しく感慨深げに溜息を一つつき、視線を落とした。
「そもそも僕たちは、めぐり合わない方がよかったんじゃないかな」
 このとき、沈んだ空気に飲まれるように脩一の気落ちした一言が聞こえると、奈美は、すぐに顔を近づけ、ゆっくりとした口調で語った。
「でもね、この服のことは、あんまり憶測で想像しない方がいいわよ。よくあることなんだから。男と女がいっしょに暮していたら……。それぞれ家族を離れて生活を始めたのよ。そりゃあ、気がめいることや、意見の食い違いもあったはずだわ。とにかく母は、あなたのお父さんとこの山小屋で暮らせて幸せだったって、電話の声でも充分伝わってきたから。それは私が保障するわ。だから気にしないでね」
 説き伏せられるようにそう言われ、脩一は骨壺と箱をまた元の状態に戻し、ピアノの中へ納めた。
 その日、奈美に宥められてはみたものの、何んともいたたまれぬ気持ちで店へ戻ると、爪に泥垢の染みが入った指でパソコンを動かした。
沙希からのメールが届いていた。

 突然ですが、わたしたち婚約しました。今、とっても幸せです。

 文面には写真も添付されていて、開くと、どこかの島の崖際で初日の出でも拝んだのか、灯台にもたれたリュックを背負った彼女と、その隣には赤い鬚をたくわえ同じように重装な出で立ちをした外国人が笑顔で写っていた。
 卵はどうなったんだ。パン屋のことは。そして残された僕のことは……。
 みんなけっきょく、自分が考えているほどにこだわっては生きていない。
 脩一は宗治の死や、さっき見た服のことも必要以上に考え込んでいるのは自分だけではとふと思い、これまで保ってきた緊張が俄かに弛緩し、崩れていくようだった。なるほど奈美の言うとおり、すべてはよくあることなのかもしれない。世間では星の数ほどよくあることなのかも。
 琴絵の顔が浮かんだ。遠慮することも、隠すことも今さら一つもない気がした。
 さっそく電話をかけると、受話器から聞きなれた声が返ってき、これからすぐに行く旨を伝えた。気がつくと、彼女の住むアパートの駐車場がすぐ目の前に迫っていた。
 脩一は、この際、宗治が死んでから一月の間にあったことを、彼女にぶつけてみようと思っていた。
「そう。あの人には娘さんがいたの……」
 琴絵は奈美の存在は知らず、わりに冷静だった。
「実は、お母さんに見せずにいた二通の手紙を持ってるんだ」
 琴絵の顔が平静を装いながらも、どこか強張っていくのを脩一は見逃さなかった。
 脩一は、バックから少々色褪せた封筒を取り出した。琴絵は、静かにそれを開くと途中から、納得がいかないのか訝しげな表情で唇を噛み、首を小さく振った。
「おかしいわね」
 脩一が、思いがけないその言葉に驚く間もなく、琴絵は椅子から立ち上がると整理箪笥の引出しをごそごそと探し始めた。
「あったあった、これ、これ」
 定型の白い封筒で差出しは父になっている。茶色っぽく褪せた小さな新聞記事の切り抜きと便箋が一枚入っていて、こう書かれてあった。

 明子さんが交通事故で亡くなりました。あなたには一応、お知らせし ときます。

消印は、十九年前、つまり宗治が家族のもとを離れていった翌年だ。
「相手とは仕事の出張先で知り合ったのよ。でもね、回り回って、因果応報ってあるのかしらね。あの人が出ていった次の年に、居眠りした車に轢かれて死ぬなんて……」
言葉のきつさとは裏腹に琴絵の声に変化はなく、淡々とした口ぶりだ。
「私もまだ若かったし。すぐに一週間分の新聞をかき集めて、探し出した記事がそれよ」
これまで、脩一の前では未練がましい態度を見せたことのない琴絵ではあったが、当時のことを話せばやはり、表情のどこかに風化しきれぬ何かを今だ引きずっているのが見て取れる。
記事に目を通すと、横一段で事故の様子と被害者の姓名と年齢が書かれ、四十五歳になっていた。
「だったら、この手紙は」
「ワープロよね……」
 琴絵は訝しむように目を細め、紙面を片手で掴みしげしげと見た。
「あの人は、手紙くらいは手書きをする人だったと思うけど。第一、あなたに書くのにわざわざこんな書き方をするってへんじゃない」
 確かに残された遺書も手書きだったし、あの膨大な楽譜に仮名をふっていた父だ。改めて眺めると、そこに並んだ文字がやけによそよそしく思えてくる。
「それにしても、あの人も、よく一人で持ちこたえたものだわね」
 琴絵が最後に吐き捨てるように言った科白の向こうで脩一に浮かぶのは、ただ一人の女性しかなかった。
posted by あそびと at 03:44| 熊本 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ノベルでのべる・第十編『伝言』(2008年作) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『伝言』・その七

    七

 山小屋へいっしょに行ってほしい。
脩一は、メモ用紙に書いて、奈美へ渡した。
「これから……、もちろん、いいけど……どうして」
 それには脩一は答えず、ただ黙って奈美の顔を凝視した。そこから小屋までスムーズについたとしても二時間半はかかる。時計を見ると三時半を過ぎており、到着時はどっぷりと日が沈んでいることは間違いない。脩一はそのことは最初から計画していたのか車では来ておらず、奈美の車で出掛けた。
 平日ということもあって、道路は比較的、空いていた。街中から郊外をぬけ、徐々に田園が広がっていく。やがて傾斜のきつい道が増えてくるとアクセルをいっぱいに踏みながら、どこか疲れのようなものが奈美にはおとずれていた。話しかけようにも言葉を発さない脩一が助手席にいるからなおさらのことだったろう。ただ、奈美自身、そろそろある事実を打ち明けるべきときがきつつあると感じていた。
 二人が出会った警察署を過ぎ、いよいよそれを合図に、国道を左折し、ビーグルのいる数軒の集落を突っ切ってから山道へと入った。陽はすでに落ち、まるで真っ暗な藪の隧道でも走っているようだ。車の側面に迫り来る根株や土手の赤土がヘッドライトに照らされ晧々と映しだされていた。
 ハンドルを手に、奈美は、どう切り出せばいいのか迷っていた。心に深く鉤が引っかかったように重い。なぜ、あんなまねをしてしまったのか。彼女はかつて二度、今隣にいる脩一に手紙を書いた。一つは既に死んでいた母になりかわり、もう一つは彼の父宗治として。
 山間の地域に入って曇り空から溶け出しては舞い始めていた雪は、蝶が羽化でもしたように乱れ飛ぶ粉雪となり、小屋につくころには土くれが見えないほど周囲を真白に染めていた。風が強く、両頬を嬲っていく。昼でも日の差さない木陰に凍結した雪の結晶がライトの光に反射され、ダイヤモンドのように輝いている。出口をなくした吹き降ろしの風はゴーゴーと渦巻き、蝶の群れを宙に飛ばした。いつもなら寝静まった木立との一体感は消え去り、小屋全体が左右へ揺れ動いているようだ。
わずか一年。奈美は思った。このすべてを賭けた場所に母は一年しかいれなかった。
 母の突然の事故死を大学の下宿先で知ったとき、即座に思ったのは、娘を捨てた罰が当たったのだということだった。しかも一回りも若い男と好き勝手なことをやり、なけなしの貯金まではたき小屋をつくって住みだした。鬱々とした気持ちのまま、それでもどこかで母の死を受け入れられなかった奈美は、その対処として、反対に残った宗治が彼女の死後どんな行動をとるか、つぶさに見ていこうと決心した。もしかしてもといた鞘にあっさり収まってしまうのではないか。その哀れな結末を見とどけることで心にケリをつけようと思ったのだ。だが、宗治はそんな奈美の予想に反し、昔の家族への愛着一つ見せず、地元の木材を使って家具をつくる工場でアルバイトをしながらこの山小屋で暮らしつづけた。外部の人とは必要以上に接触せず、むしろそれは偏狭なほどだった。ただ彼が唯一、息子の脩一のことだけは気にかけていることは、ときおり漏らす言葉の端々から充分汲み取れたし、脩一が幼い頃、夏休みになると熱心に山小屋へ誘っていたことからも理解できた。だから、夏、息子が来ると聞けば、つい食材の差し入れをしてしまう自分がいた。同じ年頃で父がいなくなった自分と重ったのだ。脩一には罪はない。中学になり、パタリと連絡も減ったようで、ときおり塞ぎこむ彼を見たとき、距離を置き見ていたにもかかわらず、どこかほっとけなくなった。何かしてやらなければ。そう考えたとき思い余って明子になりかわり書いたのが最初だ。やがて、三年後、彼女は宗治の異変に気づきだした。まず仕事に行かなくなった。山小屋からも出なくなり、ぼんやりと縁側の椅子に身を沈めては一日を過ごす。食も減ったようで、頬から肉が落ち、体全体が細っていっているのが目に見えてわかった。もういいのではないか。彼女の中にそんな思いがふと過ぎったのはそのときだ。もう、許すべきときが来たのではないのか。気がつくと母の死から十年がたっていた。そしてその死を知らせる手紙を宗治のつもりで息子に送った。
 そろそろ、やりたいことをやっていいんじゃないかしら。死んだ人にいつまでも縛られることを母も望んでいないと思うんだけど。そんなことを彼女が、何かの拍子で言った時の宗治の顔を彼女は一生忘れないだろう。悲しみも怒りも通り越し、心の底から相手を軽蔑する眼差しだった。そう、さっきあの店で脩一がメモを渡したときの顔とそっくりだ。
 何かを誤解していた。奈美はそのとき初めて悟った。明子と宗治との関係を普通の計りで見ようとしていたのは、他でもない自分自身であったことを。
 彼女は、ある曲をピアノで弾いてみせた。彼女にできることは、もうそれしかなかったからだ。曲は明子が好きでよく弾いてくれてたものだ。奈美はピアノの手ほどきをほとんど彼女から習った。母は小中高と、かなり熱心にピアノをやっていて、事情が許せばピアノ教師になりたかったと言っていた。母が愛したピアノ。当然、それは自分が受け継ぐものと思っていた。小屋へ持っていくと聞かされたとき、裏切りが憎悪へと変わった日が今では遠い昔のようだ。
 すぐに宗治に変化があらわれた。旋律がすすむにつれ、無表情に近かった目に微かな光が呼び戻されてきているようだった。瞼が真っ赤に染まると、頬を涙が一滴、零れ落ちていた。それから、宗治はとりつかれたように次々と楽曲を聞いては楽譜を要求し、彼女がコピーしてきたものを切り貼りし、仮名をふりはじめた。練習もすさまじく、CDを耳で何度も聞いて、その音が消えぬうちに楽譜で探し出し、指の動きを反復させ、体に覚えこませていった。奈美が教えたのはほんのさわりだけで、後はすべて独学だ。一体、彼のどこにこんな力が残っていたのか彼女自身にも信じられなかった。もちろん聞いてどれもぎこちないものではあったが、一曲終えるごとに彼なりに納得しているようだったし、はなから弾けぬと思ったものは仮名をふることだけで満足している様子だった。家具づくりのバイトも意外に器用な面があり信頼されていたのか、たまに声がかかると、また行くようになった。そうやってさらに十年が過ぎた。最近になり奈美が会社を起こし、バタバタし、一月ほど山小屋へいかなかったとき、彼の死は知らされたのだ。ピアノの細工はその間にやったらしい。もちろん骨壷も服のことも知らなかった。事故のときのものを宗治はとっていたのだ。
 奈美が先に鍵を開けると、板と板の隙間から侵入した旋風が不気味な笛の音を鳴らしていた。室内にもかかわらず、カーテンの裾は無軌道に揺れ、外気を送るつづけるため冷え切っている。歩くたびに床は軋み、日一日と柱の一本一本から耐久の寿命が過ぎていっているのがわかる。唯一の暖房器具である石油ストーブも灯油が切れたままだ。じっとしていると筋肉が強張っていくだけの寒気の中で、脩一は、これまでのことを回想しつづける彼女の一つ一つの動作を見逃すまいと身構えた。吐き出される白い息だけが、むしろ揺るがぬ彼女の生気を感じさせた。
「あなたの注文どおり、やってきたわよ」
 あちこちから聞こえる擦過音や唸りも気にしないかのように、小さな木製のテーブルにつくと、奈美はサバサバとした口調で言った。もうすべてを打ち明けよう、そんな気になっていた。
脩一は、キッチンの横の棚に並べてあるCDから一枚を取り出すと、ラジカセにセットし音楽をかけた。
可憐なピアノの伴奏から始まる曲だ。脩一は、メモ用紙にペンを走らせた。

 Were All Alone

 奈美の表情が固まった。凍りついたように動かなくなり、白い息が一筋、口元から流れ出た。
宗治に弾いた曲がそれだった。
脩一は立ち上がると、再びキッチンの方へ行き、流しの下の隙間を指差した。

 ぼくは、ここにかくれていた。

 それは既に文字とはいえない、希求に近い言葉だった。走り書きされた紙を受け取り、奈美の唇もふるえた。

 小一の夏。

 昨日、脩一は一人でこの山小屋に来ていた。当時のことがわかるヒントはないかと探しにきたのだ。吉野明子が十九年前に死んでいたとしたら、それを裏付ける何かがあるのではないか。そのとき彼の記憶に甦ったものは、この場所だった。
 初めて山小屋にきた小一のとき、普段住んでいる街中とのあまりの違いに緊張してか、彼は到着と同時にひどい腹痛と下痢になった。予定では水着に着替え、一度麓に下り、別の山の中腹にある谷あいへ川遊びにいくつもりだった。しかし、下痢が治まらず、布団に横になってはトイレとの行ったり来たりを繰り返した。徐々に回復はしてきたものの、初日でもあり、先のことを心配した宗治が薬を買ってくると言い出した。脩一は、すぐに帰るという宗治の言葉を信じ、ただ横になって眠った。数十分たっただろうか、車の音がし、痛みも引いた脩一はちょっとした悪戯心がわき、隠れて驚かしてやろうと思い立ち、急いで見つけたのがこの隙間だったのだ。ちょうど水引のステンの下で空洞になっている。しかもお誂え向きに、中が見えないように木綿の布が垂らしてあった。醤油や味醂のビンも数本しかなく、当時クラスでも小柄だった脩一はなんなく身を隠すことができた。
 布を落とすのとほんど同時に玄関の鍵が開き、人が入ってきた。
 脩一は息を凝らし、じっと飛び出すタイミングを見計らい、そばに来るのを待った。だが足音が耳元に近づくにつれ、それが宗治でないことがすぐにわかった。もの静かで、遠慮深く、できるだけ事の用事を早く片付けようとしているそんな足取りだった。何かをとりに来たのだろうか。脩一は腹痛のことも忘れ、ただじっとしていた。汗がしゃがんだ腿の付け根や脇の下にじっとりと熱をためこみ滲んでいるのがわかった。
やがて、足音は目の前にやってきた。黄色い花柄のついたソックスと、スカートの裾が見えた。脩一には背中向きで冷蔵庫を開けると、持ってきていたものを入れ始めた。冷凍から冷蔵へ、慣れた手つきで素早く補充していっているのがわかった。ビニールの音がかさかさした。
 そのとき、何かが倒れる音がした。
 足の持ち主は、背伸びをし片手で直し始めた。右足が上がり、左足で体を支え、必死に、掛け直そうとしている。やがてそれも終えると、足首は脩一の視界から消え、一度玄関に行きかけ、また引き返してきた。木の擦れ合うような音がし、脩一はそれがピアノの蓋を開けるものであることがすぐにわかった。そして聞こえてきた曲がこれだった。

 Were All Alone

 あれは、君だろう。

 奈美は、脩一の顔をじっと見た。すぐに頷き、肯定したかったが相手の必死に訴えるような文字や態度が反対に何かを阻みだした。二人の間の淀んだ空気を、言葉で説明することで払いのけたかったが、唇が動こうとしない。
脩一は、とどめを差すように、強い筆圧で押し切るように書きなぐった。

 右利きだった。

 奈美の中の何かが微妙に揺れた。
縺れた糸をほどき、事実を伝えるということ。その困難さが先に彼女を襲いだしたのだ。正確に、できれば感情の機微も含め、当時の自分の気持ちをありのままに伝えたい。でも、表面をなぞるだけでは何もかも誤解されてしまうかもしれない。私が母たち二人をまちがって見てきたように。けっきょくは人は生きてきた証など何一つ立てれないのだ。でも脩一の心にだけは言葉をとどかせたい。
 奈美は今、自分のやった行為の本当の重さに気づかされ、今度は、自分自身が審判を下される番であることを覚悟した。
 時間が必要だ。それほどに私が彼にしてきたことは大きかった。
心が決まってからの彼女は、むしろ静けさを領した態度に変わっていった。脩一は、食器棚の上に掛けられた山の風景写真を飾った額縁をちらりと見てから、彼女へ視線を移した。

 お母さんは、左利きだ。

 奈美は、ただ黙って座っている。

 服も手紙も、みんな、君のしわざだったんだ。 

 反応のない相手に刺激されたのか、脩一はその一枚を破らず、束ごとテーブルに投げ捨てた。
「……どう…して…」
 それは脩一が、その日、初めて発した声だった。嗚咽とも叫びともつかぬ、きれぎれに、咽喉の奥底からしぼり出されていた。
「僕や……父……への……復…讐…」
 胸が焼けるようで、それ以上のことはやはり出そうにない。それでも意識を集中し渾身の力で、熱湯のように滾っては昨夜から苦しめつづけた最後の疑問を言葉にした。
「君が……、父の……ほんとうの……恋…人…だった…のか」
堪えきれず、ついに奈美は、激しくそこで首を何度も大きく横に振った。
「ちがう、ちがう」
 頭を揺すり、小屋中に響くように叫んだ。これまでの冷静な態度と打って変わり、脩一もやや身をのけぞらせ怯んだ。それでも彼女が興奮を沈めようとしていることは、小刻みに間隔を空け伸びていく呼吸の音からわかった。
「あなたも私と同じよ。私が母のことをわかっていなかったように、あなたもお父さんのことはなんにもわかっちゃいない」
耳元を掠める風の音にもけっしてひるまぬ強い口調だ。心に掛けた留め金がカタリと外れるような音が、今、奈美にはした。
白熱球の光がとどく二人の場所以外、部屋は闇に溶けている。声は、深い洞窟で発せられるように低くくぐもった。
 奈美は両手を首の後ろへもっていくと、タートルネックのセーターの中からペンダントを取り出した。銀の小さな本の形をしたロケット式のものだ。まるで表紙をめくるように蓋をあけると写真が入っていた。椅子に座ることもなく突っ立ったままの脩一に、それは差し出された。明子の遺影で、修正される前の写真だ。消された白い背景の向こうに何かが隠されているのではと薄々感じていた脩一は、自分の勘の的中に動揺を覚えた。宗治がいた。下顎を突き出し、黒目を上に、おどけた顔で猿の真似をしていた。右手を頭に、左手はおねだりするように明子の方へ向けている。その指の先が花の生けてある小鉢だった。
 奈美の言ったとおりだった。
 これまで脩一の見たことのない宗治の姿だった。
「十九年前の私は、これを遺影には使いたくなかった。母を私から奪い取った男が、しかもそんなにふざけて……他にも写真はないかって、いろいろ探したわ。あるにはあったんだけど、こんなに生き生きと、嬉しそうな母の顔は、やっぱりその一枚しかなかったの。だから私はせめて白く塗りつぶすことで、母からこの男の過去を消し去りたかった」
そしてぽつりと言った。
「失ってからなんだわ。人がわかろうと思うのは……。でも、そのときはいつも遅いのよ」
 そのときだ。強風が吹き、小屋が大きく横揺れした。一瞬だった。柱が傾いたかと思うと、みしみしと不吉な音を立てボードが壁板からずれ、漆喰がボロボロと落ちだした。身の危険を感じた脩一は、咄嗟に、その場に上体を伏せた。ガラスの割れる音がした。部屋に雪混じりの風がなだれ込み、ガタガタと食器類が落ち、床に破片を飛び散らせた。壁に掛っていた額縁もまたたくまに落下した。基礎もなく地面に、ただ打ちつけられただけの床下の根太と柱が数本折れたらしい。支えをなくした梁が、いつまでもつかわからない。動揺もあってか、脩一は奈美に声をかける間もなく、倒れてきた食器棚から身をよけようとした際、テーブルの脚で脇腹を強打した。次の瞬間、そばにいたはずの彼女の体がまるで何かの助けに駆け出すかのようにひらりと動くのが見え、黒い影絵となって彼の視界の端をかすめた。激痛に顔を顰めながら、脩一は奈美を追おうとするが、ついていけない。水平に目を凝らすと、小屋全体が左に傾いているのがわかった。どこかで呻き声がした。
 うつ伏せのまま、その声の先を見ると、奈美がピアノの下敷きになって倒れていた。鍵盤が仰向けになった彼女の脇腹を咥えこむように押さえつけている。骨壷もダンボール箱も、頑強なフレームを囲った茶褐色の胴体に隠れて見えない。
「な、…なみ……」
 脩一は必死に呼びかけようとするが声にならない。苦しげな彼女の喘ぐ声にもかなわぬほどか細く、それでもただ必死に目を離さず叫びつづけた。
「なみ……しっかり……」
 次第に力がこもり、はっきりとした音の連なりになっていく。それでも、耳にこもる響きが錯覚でないことを祈りながら、ふりしぼるしかなった。
「なみ……しっかりしろ、なみ……」
 倒壊しかかった山小屋の中で、砕けたガラス戸から漏れ出る声は、吹雪始めた雪とともに杉林の彼方へと木霊し、すぐにまた、突風にかき消されていくばかりだった。

(尚この作品は「詩と真実」2008年5月号に掲載されたものです)
posted by あそびと at 03:42| 熊本 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ノベルでのべる・第十編『伝言』(2008年作) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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