2007年09月13日

『白ねこと少女』・その1

          白ねこと少女 

      1 やねがわらの上の白いねこ

 絵里は、小学五年生になる女の子です。アパートの二階に住んでいます。まわりには、まだ少したんぼや畑もありますが、少しずつならされ、宅地がふえています。となりは二階だての大きな家で、子ども部屋の西側の小窓からかわらの一枚一枚がはっきり見えます。その屋根に最近、白いねこがあらわれるようになりました。
 「いつも、なにしにきてるのかしら」
 ねこは、かわらとかわらがかさなったとっぺんに、前あしをのばし、部屋の中をじっとのぞいています。
 絵里は、犬やねこがあまり好きではありません。ただそのねこは、どこかすまし顔で、そのぶん、ちょっぴりいたずら心がわいてきます。近づいておどかしたくなります。ふさふさした毛は、さわればどんな感じか、興味がわいてきます。
 弟の祐一が乗ったオレンジ色のスクールバスが、さっきアパートの前を出発しました。
 「それじゃあ、えりちゃん、お母さんもいくわね」
 母の和子もそれに合わせ、仕事へでかけます。
 祖母の富江もやってきますが、それにはしばらく時間があります。そんなとき、いつからか、白いねこが話し相手になりました。
 「あんまり、じろじろ見ないでよ」
 パジャマからふだん着にかえた絵里はふんと鼻をならし、今日、やるつもりの教科書をえらびました。国語と算数、それに社会です。
 「あなたは、いいわね。ただそうやってボーッとしていればいいんだもん」
 いつも自分なりにやれるはんいで、漢字や計算をやっています。
 でも、その日は天気もよく、どうしても一番にしたいものがありました。
 「ねこのあなたには、むりでしょう」
 絵里は、教科書を机の上に置いたまま、かべにかかったまるい鏡の前でマスクをつけました。少し息苦しくなりますがもうなれています。さっそくねこに自慢でもするように、胸をはり、玄関へ向かいます。
 ドアをいっぱいあけ、一輪車のサドルを両手でかかえ、ポンととびらを足でけります。階段をおりると、そこがいつもの出発点です。
 体をささえるため、階段の一番下の壁に手をかけます。
 サドルをななめにし、すばやくペダルに両足を置きます。壁から手をはなし、一気にのりあげるのです。左右の手は、交ごに水をかくようにゆれ、たくみにバランスをとり、タイヤは路面をころがっていきます。まるで、ツイストをおどっているようです。
「あっ」
 目の前を、ねこが走りすぎました。
 絵里が一輪車にのることを知っていたかのように、正面をわざと横ぎったようです。すばやい動きで背をかがめ、道路にでていきます。きわにはガードレールがあって、幅一メートルほどの井手とへだてています。
 「わっ、すごい」
 白ねこは、ガードレールのすきまから、あっというまに井手を飛びこえ、ブロックべいのわれめへいなくなりました。へいの向こうは空き地で、あつぼったい葉をつけた丈の高い草が生いしげっています。トゲのあるツタもはい、ハハコグサが黄色い花をさかせています。ブルドーザーやダンプカーは、ずっと前にひきあげてしまいました。
 いつも、駐車場の中だけこいでいた絵里は、ねこに誘われるように少し道路に出てみようと思いました。アパートの外の景色をのぞいてみたくなったのです。バランスをとるため、神経を集中させます。
 くるぶしとかかとの力を、ゆるめたりいれたりします。ときおりペダルを固定させ、ブレーキをかけます。角でキュッと曲げ、左へおれます。彼女にとって、自分と一体となってはしる一輪車は、なによりも楽しい乗り物です。路面にこうばいはなく、平らな道がつづきます。速くなる心配はありません。太ももに力をいれ、いつもどおりバランスをたもつことにせんねんしました。
 「あのねこは、どこにすんでるんだろう」
 ちらりとブロックに目をやり、気をとられたすきに、思ってもみないことがおこりました。
 数メートル先の曲がり口から、大きな自転車があらわれたのです。
 一輪車に、すえつけのブレーキはついていません。思いきって方向をかえるか、その場で飛びおりるのが、せいいっぱいの身をまもる方法です。
 相手は、仕組みをわかっているように、先にハンドルをきりかえしてくれました。バランスをくずし、ウオーッとさけび声をあげ、一直線にガードレールにつっこんだのです。
 絵里はころばず、一輪車だけが足をすりぬけ、道路の中央に飛び出ました。車が来ていないことが、幸しました。
自転車にのっていたのは、大きな男の人です。
 ゴテゴテのぶあつい革ジャンと帽子をかぶっています。肌の色は浅ぐろく、吹きでもののあとが、ほほにいくつかのこっています。目が細く、ちょっとこわそうです。痛そうに顔をしかめ、ゆっくり立ち上がると、自転車をおこしました。ハンドルが心なしかまがっています。
自転車を押しながら、近づいてきます。彼女は、逃げだしたい気持ちを必死にこらえ、肩をすくめ、じっと身がまえました。
「おじょうちゃん、だいじょうぶ?」
やさしい言葉づかいで、心配そうに聞きます。
それがかえってあやしげに感じられ、心をゆるせません。口もとをひきしめ、立ちすくみました。
 「ごめんなさいね」
困った相手は、おまわりさんみたいに両足をきちんとそろえ、敬礼のように帽子をちょこんととり、頭を下げてきました。
 ズボンの後ろに手を伸ばし、財布をとると名刺を一枚ぬきとります。
「島 道夫です。どうもすみませんでした」
なんと肩書きは「社長」です。
 名刺を人からもらうのは、絵里は初めてです。そのせいか緊張してドキドキしました。ザワザワと胸騒ぎがおこり、モゾモゾおなかのあたりがくるしくなってきます。うずは、グルグル腸の中で左右へ移動し、おしっこに行きたい、そんな気分にさせてきます。
絵里は男の人のことなど、もうどうでもよくなりました。あわてて一輪車を引きずると、アパートへ引き返しました。おなかをしげきしないよう、階段をゆっくり上がります。玄関へはいるとつい勢いよく扉をしめました。
 トイレをすませた後、子ども部屋の北にあるもう一つの窓から、うすいレースのカーテンごしに外を見ました。
 さっきのおじさんが、まだ、じっとフェンスの向こうからこちらを見上げています。わざとカーテンを動かします。すると安心したように、おじさんは、向きなおり、まがったハンドルのまま、道を下っていきました。
 体が、風をまともにうけたヨットの帆のように大きくゆれ、サンダルがペダルからずれそうです。
 『まるで酔っぱらった人みたいだ』
 絵里は、ようやく息をつきました。叱られずにすんだことが、今ごろになってホッとしてきます。こちらはあやまらなくてよかったのか、それもちょっと気になりました。手の中の名刺をまじまじと眺め、「しまみちお」声にだし、机の引き出しにしまいました。
 絵里は、マスクをはずしました。
 昨日、和子が布団をとったばかりの、脚がむきだしのこたつ台があります。暦は四月になり、空気には、以前のような冷たさはなく、おだやかなぬくもりがひろがっています。すべてが衣替えの季節です。服は長袖から半袖へ、木はかたい蕾から花びらへ、空は濃い色からかすれた綿菓子のような雲へ。彼女のまわりにいるすべての人や風景が、少しずつ重たいものを脱ぎすてていきます。
 絵里は急に、思い出し笑いをしました。
 ぶつかった男の人の顔が浮かんだのです。
 厚手のジャンバーを着て、足は、靴もはかず裸足にサンダルばきでした。絵里も、風邪をひいているわけでもないのに、顔にマスクをしています。なんだか、お互いにへんなかっこうです。
 玄関のベルが鳴りました。
 鍵を開けると祖母の富江が立っていました。
 「おはよう。えりさん」
 富江は、彼女と向き合うと、いつもの微笑みを浮かべます。
 「おばあちゃん、さっきね、へんなおじさんと会ったよ」
 絵里は、富江がくつをぬぐが早いか、一息に話しだしました。祖母の顔色が、サーッと雲がかかったようにかわります。
 「ちがうの、ちがうの。おばあちゃん、へんだけどね、なんとなくおもしろい人」
 いけないことをしてしまったようで、不安になりました。
 「えりさん、どこで会ったの?」
 「一輪車にのってたら、ぶつかりそうになってね、むこうがよけてくれたんだ」
 「じゃあ、道路に出たのね。あぶないよ」
 富江は心配げに絵里を見て、彼女の肩をかるくだきました。
 「ちょっとだけだから、心配しなくていいから」
 名刺をもらったことは、だまっていました。
 どことなく気まずい思いがしたので、居間へいきテレビのスイッチを入れました。
 絵里の胸には、イルカのペンダントが、アパートの鍵といっしょにゆれています。
 二年前、海水浴の帰りに土産店で買ったものです。親子四人、同じ家に住んでいた最後の夏のことです。絵里は、胸もとから飛びだした銀のくさりをつかみ、おしこむように服の中へしまいました。
 「今度、パパ、仕事の都合で、職場の近くに一人で住まなければならなくなったんだ」
 それはちょうど、海水浴にいってしばらくたち、夏休みが終わろうとしていた日のことです。絵里が三年生、弟の祐一が小学校に入学する前の年でした。
 「それでママもいろいろ考えたんだけど、絵里たちの学校も、ちょうど来年から統合で場所がかわるでしょう。だからこのさい、あなたたちと三人でおじいちゃんとおばあちゃんの家の近くに引っ越そうと思うの」
 祐一は話を聞くやいなや、最初泣きだしました。近くに同じ保育園に通う友だちがいて、よく遊んでいたからです。統合のことがよくわからず、その子と、すぐにはなればなれになると思ったのです。
 「どうして、もっと早く言ってくれなかったの」
 叫びながら、おいおい外にひびくくらい大声で泣きました。
 絵里は、知らず知らず手がティッシュの箱に伸びていきました。ぬきとってもぬきとってもそこから紙が出てきます。小さくたたんでは、またひろげ、たてに引き裂くことをくりかえしました。
 「ごめんなさいね。ママたちも悩んでたから」
 祐一は、それから和子といろいろ話しているうちに、学校が統合されることが、けっして今の保育園の子とはなれるのではないことがわかり、気分をとりもどしたようでした。泣きつかれたのか、しばらくせぬうちに、こくりと眠ってしまいました。
 絵里は、晃が自分たちと離れ一人で住むことにさびしさもありましたが、両親のもめごとを見なくてすむと思えば、うれしくもありました。
 富江のとなりにすわって、そんなことを思いだしていた絵里は、今度は自分の部屋へ入っていきました。
 ごとごと何か動かしている音が聞こえます。持ってきたのは織り機です。四方を角材で組まれ、中央にたて糸が数十本、ぎっしりと張られています。立てると彼女の腰くらいの高さがあります。晃が、先月の誕生日に送ってきたものです。
 宅急便の配達員からうけとった後、紙をはぎとりながら、どんなものが出てくるのか、絵里は楽しみでした。
 「なんだろうね」
 富江が、となりでつぶやくように言いました。
 一心に紙をはがすと、ダンボールの箱から、なめらかな木目の織り機はあらわれました。使い方のわかるビデオまでついています。
 ブラウン管では、マーチの曲に合わせ犬やねこが登場し、フィナーレの曲が演奏されていました。
 「このへんにいるねこや犬って、こんなにかわいくなんかないよね」
 絵里は、両ひざ立ちで織り機の準備をしながら、わざと大げさに言いました。

『白ねこと少女』その2

 2 おばあちゃんが飼っていた白いねこ

 絵里が、小学校へ行かなくなって、一年になります。
 三人が、今のアパートにきて半年がたち、統合された学校や生活に、そろそろなれだしたときです。
 その日、和子は、仕事先の市役所のつごうで、となり町へ出張し、絵里も祐一も富江たちの家にあずけられました。
 祖父母との朝食をすませ、ランドセルを背負い、登校しようとした矢先、それはおこりました。
 靴をはこうとした絵里は、それまでぴーんとはりつめていた何かが、突然音を立てくずれた気がしました。全身から力がぬけていくようでした。
 絵里に、そんな感覚がおとずれたのは、その日が初めてではありません。父親とはなれて暮らすようになり、一月ほどたったころ、ある事件がおこりました。いつものように学校へ向かうスクールバスでのことです。
 いつもだったら、バスの中で、祐一と窓ぎわの席にすわって外の景色を眺めています。でも、その日は、たまたま起きるのもおそく、それに祐一が風邪をひいて欠席することになったため和子もあわてて、すべてがばたばたでした。絵理も追いたてられるように、いそいでバスにのりました。
バスに乗ったときから、どことなく体がむずむずしていました。景色だけが、ただボーッとすぎていきます。前と同じ学校に通っていた友だちもいるのですが、新しい学校になってからはなんだか話しにくい感じです。そうこうしているうちに、少しずつ不安はひろがって、やがておしっこにいきたい気分にさせました。
 バスは、だれかがのるたびにとまったり走ったりします。ゆれはじかにおなかにつたわって、絵理は、がまんしていました。
 学校へ着いたとき、限界がやってきました。絵理はこわばった顔で、一歩、一歩ゆっくりとステップをおりました。ほかの子の声も耳をかすめますが、それどころではありません。
 一番近いトイレへ行こうと膝に力をいれたときです。入口を目前にして、ふるえは、しびれにかわりました。ふとももに、温かなものがながれました。絵里は、はずかしさでいっぱいになり、階段下の下駄箱のすみで、小さくうずくまっていました。何人かの子が声をかけましたが、うなだれたまま、動くことができませんでした。
 学校でかえの下着をもらって、帰りに洗濯してかわいたのにかえ、なにもなかったように、下校しました。
 それから変な感覚は、しょっちゅうやってくるようになりました。アパートを出て、道路ぎわでスクールバスを待つ間からじょじょに始まり、乗ったとたん、いっぺんに彼女の頭の中であばれだします。
 もちろん、教室に入ってからもつづきました。
 友達の顔を見ても、相手の顔と声とが、日ごろ、絵里の知っている子とはどこかちがうようで、近よるのもこわくなってきました。先生も同じです。とてもやさしくて好きな先生が、その日から少しずつそばへいくことができなくなり、向こうから、ひそひそ声が聞こえるようになりました。さいしょはよく聞きとれませんでしたが、それがだんだんとはっきりとしてきました。トイレはもうすませたの? おもらしはしないわね? またするんじゃないの? と、しつこく聞いてくるのです。
 絵里は、そのたびに胸が苦しくなり、もう、二度としないから、と言おうとしますが、どうしてもそれができません。
 いよいよ登校できなくなる、三日前のことです。
 学校では、月に一度、学年ごとにクラス対抗のスポーツ大会が行われます。絵里も選手の順番がまわってきて、リレーを走らなければなりません。彼女は、なんとなく不安でした。あの感覚が、その日はずっと、朝、起きたときから始まっていたからです。心配していたとおり、バトンをもらう寸前にあばれだしました。
 白線の上に、他の組の子といっしょに立っていたときです。
 クラスのみんなが、自分を応援してくれているのがよくわかります。でも、その声援がよく聞きとれません。
 どこからかあの声が聞こえました。
みんなは、ほんとうはあなたのことなんか応援したりしてないわよ。おもらしをするような子は、ころべばいい、ぬかれてビリになればいいと思っているの。
 絵里は、どうしていいのか迷いました。足音は、地ひびきのように迫ってきています。彼女の手には、もうじきバトンがわたさせるのです。
 そのとき、声がはっきり言いました。
 あなたは、そこにいたいの、どっちなの? 絵里は、いたくない、と答えました。するとすかさず声は、返事をしました。そう、だったら立っていることはないわ。すわりなさい。
 絵里は、走りだすことも、立っていることもできず、その場にしゃがみこんでしまったのです。
 玄関にいる絵里も、急に泣きだし、リレーのときと同じにかがみこみました。
 祖父の繁が、強くしかり、手をひっぱり外へ連れ出そうとしましたが、石のようにかたまって動きません。それどころか、はっきりと、前から学校なんか行きたくなかったけど、我慢してたと泣いて訴えました。
 すぐに、和子に連らくがされました。
 低めた声で母親に電話で説明する富江の言葉を聞きたくなくて、絵里は両手でつよく耳をおさえていました。それから祐一が帰ってからも、絵里はほとんど無言で過ごしました。祖父母もむりはせず、様子を見ることにしました。
 夕方、母親が玄関の扉を開く音がし、富江がすかさず出ていきました。
 押しころしたように、自分の今日一日の様子が伝えられると、絵里はさらにイライラしてきました。廊下を歩く母親の足音を耳にしながら、できるだけいつもとかわらぬ態度をよそおい、祐一のとなりでテレビの画面へ顔を向けていました。
 和子は、二人を連れ、アパートへ帰りました。
 「えりちゃん、ママ、えりちゃんが学校へ行かなかったことをおこるつもりはないのよ」
 アパートへ着いてから、和子はやさしい声で話しかけてきました。絵里は、黙ってソファーに背をもたせました。
 「お願い。何があったのか話してくれる?」
 しだいに言葉と言葉との間かくが短くなる母親を、絵里は、祖父母の家にいたときには見せなかったすさまじい顔で、にらみかえしました。
 やがて目には、堰をきって涙があふれ、頬と唇はゴムのようにふるえだしました。和子の瞳も、気迫におされるように、うるんできました。和子は絵里の手をしっかりとにぎりました。
 絵里は座ったまましゃくりあげました。そばにあったピンクのクッションをわしづかみにし、顔を押しつけ、哀しくてやるせない声を胸の底からしぼり上げました。
 和子は、泣きつづける娘の横にすわり、肩をだきよせ見守るほかありませんでした。祐一がテレビを見ながらも、ときおり二人に、不安な視線を向けていました。
 機織りをする孫娘を見ながら、富江は、三か月ほど前、自分の家へ父親の晃から手紙が来たときのことを思い出していました。
 絵里が学校へ行かなくなったこと。調子がわるいとき、朝から母親や富江に物を投げつけたり、蹴ったりして荒れている話を和子本人から聞き、それが自分のせいではないか、そう考えれば考えるほど胸が痛むことが書かれてありました。和子や絵里の目の前で物をこわしたり、和子に暴力をふるったことをわびる文面の後、今度会ったときは、必ず二人の子どもと母親に心からあやまりたいとそえられていました。 
「このへんのねこや犬だって、飼ってみればかわいいもんだよ」
 富江が、手紙を受けとったときのやりきれない気持ちをふっきるように、なにげなく新聞をめくりながら話しかけました。
 「でも、おばあちゃんち、なんにも飼ってないじゃない」
 絵里の脳裏には、動物の瞳が浮かんでいます。
 「おばあちゃんが小さいときは、ねこを飼ってたんだよ」
 意外な祖母の声に、
 「えっ、ほんと」
 案の定、織り機の手を休めのってきました。
 「それって、もしかすると白いねこ」
 「あたり。よくわかったね」
 絵里の胸の中は、驚きでいっぱいでした。
 富江は、自分が絵里と同じ年ごろだったときのことを回想しはじめました。なつかしそうに額にしわをよせ、目を細めたりしています。
あの日、富江の両腕には、白く小さく、そしてもぞもぞと動く子ねこが二ひきだかれていました。
 ひろってきたねこを飼うことを富江の母親は猛反対しました。家を汚すというのが一番の理由です。
 「いいだろう。猫の一匹や二匹」
 そばで聞いていた父が言ってくれ、富江が世話をすることを条件に一応、解決しました。
 「昔の家は、玄関が広い土間になっていたの」
 絵里は、富江の方へ身をのりだすかっこうで聞いています。
 「そこで飼おうと思ったの?」
 「そうだよ。おばあちゃんの家は海べただったから、アサリ貝とか小さな魚とか、ちょっと海辺にいくと岸に上がっていてね。それを餌にひろってきてたんだよ…だけどね……」
 富江の表情がくもりました。
 「そうしたら、あるときいなくなったの」
 「もしかして死んじゃったの? 二匹とも?」
 一挙に声が、はねあがりました。矢つぎばやの質問にも、富江は、できるだけ静かに答えます。 
 「悲しかったよう。いっしょうけんめい育てていたから」
 「死んでるのが見つかったの?」
 「うん、おばあちゃん、せいいっぱいさがしたんだ。そしたら縁側の下のすみに白い毛が見えてね」
 「それが子ねこの死体だったんだね」
 富江はそんな絵里の言葉に、こっくりうなずきながら、
 「びっくりしたよ。いきなり死んでしまったからね」
 落胆するように肩をすぼめました。
 「でも、もう一匹の子ねこがみつからなかったのよ」
 「その一匹も、死んだんじゃないの?」
富江はかるく首をふり、
 「ううん、おばあちゃん、どうしても生きてるって思ってたの。だからそれからもしばらくは、小魚をお皿に入れて置いておいたんだよ」
 首をかたむけ絵里の顔を見つめ、
 「そしたらね、かならずなくなってたんだ」
 「わあ、よかったね。だったらやっぱり生きてたんだ」
 絵里も両手を合わせ、拍手するような動作をしました。
 「うれしかったよ。きれいにたべられてたから」
 富江も、無邪気そうに笑いました。
 「ところがねえ、ある日、居間にいたら土間の方でまたかさかさ音がして、くちゃくちゃ魚を食べてる音がしたの。おばあちゃん、うれしくなってね、こっそり襖を開けて見てみたんだ」
 絵里の胸も高鳴り、大きなまばたきを知らず知らずくりかえしていました。
 「そしたらね……」ひと呼吸置き、「タヌキみたいな、まるまると太ったねこがゆっくり首をまわして、おばあちゃんをにらんだの。見たこともないような大きなねこ」
 富江は口をふくらませ、息を吸いこみました。
 「大きな猫?」
 絵里も思わず声を上げました。
 「そう、こんな」
 両腕を肩幅ぐらいに広げ、輪をえがきます。絵里も目を大きく見ひらき、
 「そのタヌキねこが子ねこをたべちゃったんじゃない」
 わざとすました声で聞きかえしました。
 「おばあちゃんもそのときは、よくわからなかったよ。ただ必死で、そばにあった竹ボウキをつかんで、タヌキねこを追いはらったんだ。おそいかかってきそうだったし。こわくって」
 絵里の顔も、だんだんと真剣になってきています。富江は、おだやかな口調にもどりました。
 「まさか食べたりはしないだろうけどね、でもようやく近頃、ピンときたの。あそこはそもそも、あの大きなねこのなわばりだったんじゃないかって」
 「自分の庭みたいなもの?」
 「そうだね。きっと、前からよくそのねこはきてたんだよ。でも、小さな子ねこがいたもんだから、外へ追い出したんじゃないかと思うんだ」
 「育てるぐらいしてもいいのに」
 「自分の子どもじゃないからね。どんなに小さくったって、なわばりにきたら、あらしにきた一匹のねこなんだよ」
 「だったら、もう一匹の子ねこはどこにいったのかな」
 「おばあちゃんは、やっぱりどこかにくわえて連れだされたと思うんだけど」
 それから、最後にポツリと言いました。
 「小さいときぐらい土間じゃなくって、家の中でしっかり世話してあげればよかったんだけどね」
 絵里には、姿を消してしまった子ねこのおびえる目が見えます。瞳の表面はみずみずしく、輝いています。目はくぼみからはなれ、宙をただよい、絵里のまわりを光の渦でつつみます。まるで二つの星のように、光は線をえがき、絵里の体のすみずみにとどきます。透明な輝きの満ちる中で、絵里はポッカリと宙をただよっているようです。
 「機織りやろう」
 思いだしたように織り機の前に腰かけました。
 毛糸のたて糸は、上下半分ずつにわかれ、その中を長い流線形をした平たい板に巻かれた横糸をとおしていきます。ペダルを上げ下げし、前にやったり後ろにやったりし織りこむことで、縦横に交さくした模様はできあがります。
 「えりさん、ずいぶん上手になったね」
 「まあね」
 絵里は得意げに答えました。カタカタと音がなり、単調な作業が、なれた手つきでこなされていきます。

『白ねこと少女』その3

 3 消えてしまった白いねこ

 井手向こうに飛びはねていってからというもの、白いねこは、絵里の目の前にあらわれなくなりました。
 「どうしたのかな」
 絵里は、しばらくの間、なにもいないかわらを眺めては退屈な思いですごしました。
 そんなある日、絵里と祐一は和子の車で急きょ、病院へ向かうことになりました。祖父の繁が、銀行へ行ったとき、雨でぬれた階段でころんだのです。知らせを聞いた和子は、仕事を早退してきました。
 頭のうしろと腰をつよく打ち、救急車で運ばれたとのことでした。
 病院は白っぽく、ところどころ凹凸のある壁紙でおおわれていました。掌でなでると、ざらざらしています。
 祖父が寝ている病室になんとなく入りずらかった絵里は、廊下で壁に手をあて、さする遊びをつづけていました。
 「えりちゃん、おじいちゃんが顔を見たいって」
 先に来ていた富江が部屋から顔をだし、絵里を呼びます。
 学校に行かなくなった最初の日、つよく叱られたこともあってか、絵里はどこかで繁を避けていました。
 「おねえちゃん、おじいちゃんのことがきらいなんだよ」
 祐一がふりむきざま言うと、和子がすかさず、たしなめました。
 部屋は、甘いクリームの匂いがしました。香りが鼻の奥へひろがります。祖父と顔を合わせずらかった絵里は、一歩一歩、重い足どりで近づきました。腰のあたりの布団が大きくもりあがっています。右足はギブスで固定され、クリームの香りはそこからしています。
 繁の顔は、腫れたようにむくんでいました。横になっているので、いっそう皮ふがたるんでいるようです。あれほど元気だった祖父が、絵里には信じられません。表情をくずせばくずすほど、むりをしていることがわかります。
 「えりちゃん、ありがとうね」
 繁は、寝たままの姿勢で首をわずかに持ち上げ、ゆっくりとしゃべりました。声に力がなく、かすれています。
 「おじいちゃん、だいじょうぶ?」
 絵里も、こわごわたずねました。
 「ここのところに」
 富江が自分の太もものつけ根をさすり、
「ヒビがはいっているらしくてね、少し長引きそうなの」
一歩近づき、説明してくれました。絵里も、不安げに眉を動かしました。
 それから富江は、これからしばらくの間、毎週木曜、どうしても繁の看護のために病院へ行くことを告げました。
 「ごめんね。お洗濯物とか、いろいろしなきゃいけないことがあるし、それにお医者さんが、けがの経過を見て大事な話をしてくれる日なの。おばあちゃん、おじいちゃんのそばについてもいいかな」
 「うん。いいよ」
 絵里は、はっきりと答えました。
 和子と祐一の三人で病室を出た絵里は、さっそくマスクをはめました。
 エレベーターに向かったときです。
 祖父の病室から四つめの扉が開き、見おぼえのある厚手のジャンバーの人があらわれました。
 足もとを見ると、裸足にサンダルばきです。
 島さんです。
 島さんは絵里に気づくと帽子をとり、頭をちょこんと下げました。絵里は、びっくりし、とっさにかるく手をふると、島さんも目を細めました。
 玄関に出たとき、自動ドアのすぐ横に島さんの自転車が置いてありました。前輪の横にはプランターがあり、紫のヒヤシンスが日を受けています。
 「えりちゃん、なに見てるの?」
 ふと気づくと、立ち止まっていた横へ和子がやってきました。祐一は、車の方へスタスタ歩いています。
 「ううん、なんでもない」
 かたい口調で答えながら、島さんのさっきの顔を思いだしていました。
 その週の日曜、絵里はまた祖父を見舞いました。
 プランターの横には、ママチャリ自転車があります。それだけでなんだかうれしくなり、病室が近づくにつれ、よろこびは大きくなっていくようです。
 繁の顔を見た後、さっそく、ジュースを買いにいく口実で外へ出ました。
 さりげなく、島さんの部屋へ目を向けます。わずかに扉が開いています。足をとめ、中をこっそりのぞきこもうとしたとき、扉が動き、島さんがあらわれました。
 「おや、おじょうちゃん、また会ったね」
 絵里も、挨拶がわりに片手をほんの少し上げ、
 「だれか入院してるの」
小声でたずねました。
 「おやじがね。もうふた月になるんだけど」
 表情は少ししずみがちです。
 「どこがわるいの?」
さらに小さくささやくようにたずねます。
 「どこがって、もう年だからね」
 絵里が、ふうんと首を動かすと、今度は島さんの方から、
「おじょうちゃんの方は?」
皮ジャンのポケットに両手を突っこみ、聞き返してきました。
 「わたしはおじいちゃんが、銀行でころんだの」
 「そりゃ、たいへんだ」
 島さんは、自分が足をくじいたように、痛そうに顔を顰めました。
 「ところで、おじょうちゃん、カゼはなおったの?」
 マスクのことかとピンとき、そのままこくりとうなずきました。その日は日曜だったので、マスクはしていません。
 「おじょうちゃんの名前、まだきいてないね」
 絵里は、なんとなく安心してきたので、自分の名前を教えました。
 「えりちゃんか。よかったら、おやじに会っていく?」
 それには、首を横にふります。
 「そう。だったら、おじさんも日曜はだいたい来てるから、また会えるといいね」
 ぼそりと告げ、絵里も黙って、そこを去ろうとしました。でも、途中でふり向くと、
「早くよくなるといいね」
そう言って売店の方へ走りだしました。島さんもうれしそうに笑いました。
 病院の帰り、まだ時間も早かったので、三人は近くのデパートによりました。晩ごはんのおかずの材料を買うため、食品売り場へ向かいます。
 冷凍食品のところを歩いていると、男の人が、小さな声でぶつぶつ一人ごとをつぶやきながら、焼きギョーザの袋を手にとり眺めていました。そこへ、紺色のトレーナーにジャージ姿の人がやってきました。
 「また、こんなところにいて。何回言ったらわかるんですか。買う物は、カップメンとかお菓子だけですよ。どうせ、火は使えないんですから」
 あからさまに言うと、周囲を見まわし、場つくろいのように頭を二、三度かきました。絵里は、なんとなくいやな思いがしました。
 「ああ、ホープヒルの人たちね。ここに買い物に来るんだわ」
 和子が、かちかちに凍ったピラフをかごの中に入れながら、ちらりとそちらを見て、つぶやきました。絵里もホープヒルの話は、どこかで聞いて知っていました。
 インスタント食品の売り場を見ると、ぞろぞろ十人ぐらいの人が列をつくり、歩いています。どの人も背をまるめ、だらりと手を下げ、くらい表情をしていました。目を見るとうつろで、静かに品物をとっては、またもとの棚にもどしていきます。ギョーザを見ていた人も、若い職員に腕をつかまれ、その中へつれられていきました。
 一週間がたちました。次の日曜、ママチャリは、同じ場所にありました。
 絵里は、さっそくジュースを買いに病室からぬけだしました。
 彼女はどこかであせっていました。それというのも、来るとき見た島さんの部屋が扉がきれいにあけられ、間仕切りのカーテンも隅によせられ、中がのぞけたからです。
 個室にはベットも、人の気配もなく、がらんどうでした。
 絵里は、つよい動悸をおぼえ、下のロビーへ走り出ました。
 自動販売機にコインを入れ、パック入りのジュースを出しました。あわててそれをつかみ、はなれようとしたとき、絵里の立つ廊下の一番奥に人影が浮かびました。
 ラバーばりのパイプの椅子に見おぼえのある男の人が、しょんぼりと肩を落として座っています。
 まちがいなく、島さんです。
 非常階段に一番近い場所に、そこだけ黒い紙の切り絵のように、はりついていました。
 絵里は勇気をだして近づいていきました。数メートルまでいくと、島さんが、同じジュースのパックを持ち、ストローをぼんやりとくわえています。
 彼女に気づいたのか、最初、とまどったふうでした。しかし、すぐに椅子に深く腰をかけなおし、大きく溜息を一つつきました。パックをふいごのようにふくらませ、それを小さな風船のようにパンパンにします。ジュースは完全に飲み干され、空になっているようです。
 絵里は、一歩、足を運びます。手をのばせばとどくところで、じっとしていると、島さんは、悲しげに眉を細めました。
 絵里はジュースを持ったまま隣に腰かけました。島さんの口がそれに合わせるかのように、ストローからはなれ、ゆっくり開きました。
 「おやじが、死んじゃったよ」
 「……」
 絵里は、なんと言っていいのか、わかりませんでした。体が金しばりにあったように動きませんでした。

『白ねこと少女』その4


   4 瞳の奥の白いねこ

 「今日の朝早くだったんだけど」か細い声で、相手はつづけました。
 「おじさんは、ここにいていいの?」
 絵里にとっては、精一杯の言葉でした。
 島さんは、首を横にするだけです。
 唇に天井からふりそそぐ蛍光灯の明りが反射し、つばを薄い氷の破片のように光らせていました。島さんはおもむろに、またストローをくわえ、吸ったり吐いたりし、パックをふくらませたりちぢめたりしました。それからぎこちない動作で、ジャンバーの内ポケットから一枚の写真をつかみ、絵里に見せました。縁がインクでにじんだようにところどころまだらをつくり、色あせています。
 「これが、おじさんちなんだけど」
 絵里は写真に目を向けました。喫茶店のようなつくりの建物の前で、島さんともう一人、小柄な老人がならんで写っていました。
 「お店をやってたんだよ。おじさんは、こう見えてもコーヒーを入れるのが得意だったんだ」
 そこにはないフィルターに、今にもお湯がそそがれ香りを嗅ぐように、顎をしゃくりました。口もとは知らず知らずニンマリとゆるんでいます。
 島さんは苦しそうに咳きこみました。喉の奥で啖がからみ、そのからみをむりやりとるように、激しく二度くりかえされました。胸から外へうなるように轟きます。病院の廊下にひびくその音は、耳ざわりで不吉なものでした。
 「おじさんも、具合がわるいの?」
 「ああ、少しね。でもちっちゃいときからだから、もうなれちゃったよ」
 絵里はそのとき、ベッドに伏している繁のことを思いました。すぐにもどろうかと考えましたが、なぜかできません。
 写真をひざの上に置き、島さんは、今度はさらに思いたったように顔を上げました。パックを持ったまま、じっと片方の掌をひろげ、裏表にします。それから絵里の方へ視線を動かし、またスローモーションのようにもどしました。
 絵里が黙っていると、島さんはつぶやくように、
 「おやじの心臓が止まってから最後に、おじさんが鼻から管を引きぬいたんだ。そしたらこんなに、へびみたいに長くって……」
 腕をひろげます。絵里の両肩の何倍もありました。
 「先っちょに、血がこぼれてて、それがチロチロ出てる舌みたいに見えてね。おじさんこわくなって」クスッと笑い、「みんながとめたけど、それを窓からほうり投げちゃったんだ。そしたら親戚から、お前はいいから外に出てろって」
 眉と眉との間にシワをよせ、悲嘆にくれ、今にも泣きだしそうです。唇をつよく噛み、またストローを口にすると、噛みくだくように歯をたてます。
 「あの機械、こんなふうにね」
パックに空気を入れ、吸っては吐き、
「おやじに、むりやり息させて。おじさん、ぜちゃったいやっつけてやりたかったんだ」
 真剣な顔で言いました。
 「あとで見たら、指先に血がついてたよ。おやじの匂いがした。酸っぱい、それでいてねばねばしてるようで……」
 背中から腰にかけ、バネがしかけられているようにふるえだしました。まるで凍えた人のようです。
 「それなのにおじさんは、あんなに好きだったおやじなのに、その血をなんども、水道で洗ったんだ……」
 そこに水と洗面台があるように、穴のあくように壁を見つめていました。
 「気持ちがわるかったの?」
 「そうじゃない。そうじゃ……」
 島さんは大きく息を吐きました。
 パックをにぎった手の甲の上にもう片方の掌をのせ、かじかんだ手をもみほぐすように、何度もこすりました。表情は、かげりを増し、うつむいた首が横にふられます。パックはつぶれくしゃくしゃになっていました。
 絵里は体をかたくし、掌をぎゅっとにぎりしめました。顔の筋肉がこわばり、うまく気持ちをあらわすことができません。
 「えりちゃん、虫をつかまえたことはある?」
 どことなく、やわらいだ口調になりました。
 絵里は首をふりました。
 「おじさん小さいときは虫が好きで、よく飼ってたんだ。えさもちゃんとやってたんだけど、でも、いつも最後にはかごの中で死んでいたよ。それも、なぜか明け方なんだよなあ。おじさん、悲しかった」
 絵里も、たまに感じることがあります。
 暗いベールがもうじき消え去ろうとする頃、ふと目が覚めると耳がツーンとして冷んやりとしてきます。自分以外の気配がいっさいしなくなり、とても心細い時間です。
 「おやじは、明日には灰になっちゃうんだ」
 絵理はおびえた顔になりました。
 「おじさん、おふくろが死んだとき、火葬場の人にたのんだんだ、燃えてるのを見せてくれって。でもだめだったな。あとで骨の中から、真っ赤なボルトが出てきたのはおぼえてるんだけど」
 絵理は、下を向きました。
 「おふくろはね、膝の手術をして、骨と骨とをボルトでつないでたんだ。あとでおやじが教えてくれたよ。おじさん、そのボルトを見たとき、てっきりおふくろの心臓かと思ってね。それをもらってお守りにしたかったんだけど、させてもらえなかった」
 絵理は、こわくなりました。
 「もういかなくちゃ。ママたちが心配しているもの」
 「もしよかったら、今度、おじさんちに遊びにこない?」
 島さんは持っていたペンで、写真の裏に地図を書きました。
 「なんならおじさん、迎えにいってもいいよ」
 絵里は、地図を見ながらしばらく考えました。アパートからそう遠くないところのようです。絵理がどうしようか悩んでいると、島さんは、いかにも人なつっこそうに声をかけてきます。
 「いつならいい?」
 「いけるとしたら木曜かな」
 とっさに彼女は、富江がアパートへ来ない日を答えます。
 「わかった。だったら、こんどの木曜にね」
 けっきょく、つぎの木曜十時に、アパートの前で待ち合わせすることになりました。
 「あっ、それからこれもわたしとくね」
島さんは、また名刺をとりだしました。
 「名刺ならもらってるよ」
 断ろうとすると、それをさえぎるように強引に手ににぎらせます。
 今度は『島 道生』と書いてあるだけでなく、文字はすべて金色で、肩書きも『取締役』です。
 「あれ、おじさん、社長じゃなかったの?」
 待っていたとばかりにうれしそうに、
 「印刷屋のセールスがうるさいから、おやじが入院してるうちにつくってもらったんだ。こんどは取締役がかっこういいかなって思って」
 彼女は、しかたなく写真と名刺をもらい、オーバーオールの胸ポケットにしまいました。椅子から立ち上がると、階段へ向かいます。一歩あがるたびに靴音が耳もとにひびきます。
病室は、絵里の不安をよそに、笑い声で満ちあふれていました。
 「はい、これ」
 絵里は自分が飲もうと買っていたジュースを祐一に手わたしました。祐一は、ありがとうと、笑ってうけとりました。
 「祐一よかったね。おねえちゃん、ちゃんとあなたのぶんも買ってきてくれたんだ」
 和子の言葉に祐一は、照れくさそうに鼻の下を手でこすりました。
 その晩、絵里がベッドに寝ていると、天井の木目もようが大きくなってきました。そこだけ気味のわるいほどふわふわと浮かび上がります。まぶたを閉じると、うらがわでパーッと光が飛びちったようになります。
 前に、カゼで熱がひかず、うなされたことがありました。目を閉じると、空へつづく階段を一人で上っていく気持ちになります。その日も、そのときに似ていました。自分の家から、どんどんはなれていっている気分です。
 祖父の繁の顔が浮かびました。顔中しわだらけで、とても小さく、今にも消えてしまいそうです。ベッドごとどこかへ運ばれていきます。その後を富江も追いかけていきます。和子も祐一もついていきます。絵里はどうしようかと悩み、一瞬立ち止まり追いかけようとしましたが、ほんのわずかの迷いが手おくれでした。目の前には幕がおろされ、なにも見えなくなってしまったのです。
 絵里は、深い闇の底へ落ちていきました。
 次の日の朝、多少うなされ、目をさましました。熱が三十八度五分ありました。富江が看病をしてくれていました。
 ひんやりとした祖母の手が額にふれます。
 「おじいちゃんはだいじょうぶなの」
 「看護師さんがついてるから、今日はいいのよ」
 「おじいちゃんの足、よくなってるんでしょう?」
 「おかげさまでね。絵里ちゃんたちが、見舞いにきてくれるから」
 「でも、いつか死ぬんだよね」
 とっぴな孫の質問に、富江は真面目な顔になりました。
 「そうだね。一応、順番は年をとった人からだけど、だれだって、いつ死ぬかわかんないよ」
 「おじいちゃんもおばあちゃんも、まだだいじょうぶだよね」
 「そんなにかんたんに死ぬわけないでしょう。おじいちゃんなんかね、絵里ちゃんたちが帰った後、病院のご飯だけじゃたりないから、おばあちゃんにおにぎり買いにいかせるのよ。おばあちゃんも、ちゃんと一個もらったけど」
 絵里もそこでようやく安心したように、少しだけ笑いました。
 「おばあちゃん、お葬式って行ったことある?」
 「そりゃあ、あるわよ」
 「初めて行ったのはいつ」
 「あれはたしか、えりちゃんくらいの年だったかね。おじいちゃんが死んだときだから、戦争が終わって何年かしかたってないときだったと思うよ」
 「死んだ人を燃やすのは、くさるから?」
 「そうだね。死んだ人も骨にしてやらないと、いつまでもそのままにしておいてもねえ……」
 それから少し間をおいて、
 「あのころはまだ、途中で一度、火から出して、最後のお別れってことで見せてくれたんだよ」
 絵里は、おどろきました。人が燃えているところを見せるなんて、残酷すぎます。祖父の繁が燃えているところを想像しますが、顔の表面や髪の毛がちりちりと焼けているのを考えただけでも、とても耐えられません。炎の中から、バッと目を開け、熱いよ、熱いよと叫んできそうで、思わず目を閉じました。
 まぶたのうらがわに、なにか生きものがうごめきます。
 「あ、白ねこ」
 目を閉じたままつぶやきました。
 「おばあちゃん、いなくなってた白ねこがいたよ」
 さすがに富江も言葉が出ず、様子をうかがいました。
 「白ねこがね、火の中から出てきたよ」
 「白ねこって、おばあちゃんが飼ってた、あの一匹?」
 「そう。それからね、ほんとはね、わたしにも猫の友だちがいるんだ」
 「へえ、じゃあ、おばあちゃんと同じだ」
 富江がうれしそうに答えると、絵里も口もとをほころばせました。
 「えりちゃん、まだ熱があるし、今日はゆっくりおやすみ」
 ふとんを肩にかけなおしながら、顔を見ました。
 瞳の中で、さっきあらわれた白いかたまりはやがて、炎といっしょに右や左へゆれ動いています。
 オレンジ色の光が、ふさふさした毛の先から、花火のように飛びちります。絵里には、それが七色の虹に見えました。無数のつぶが、さわさわとうずをまき、白ねこは、虹にかこまれ、彼女をふたたび深い眠りへさそいました

『白ねこと少女』その5

5 古い写真の中の白いねこ

 風邪がすっかりなおり数日して、島さんと約束した木曜日がやってきました。
 その日、朝から絵里の心は落ち着きません。島さんの家に行った方がいいかどうか悩んでいたからです。行きたい気持ちがもたげてくると、すかさず不安がおいかけます。
地図によれば、家は井手向こうにあります。学校の方角とは反対です。店の立ちならんだにぎやかな通りまでの近道が書かれていて、車がけっこう多くとおる道路に面しています。人目につかないためには、井手をこえ、直接、空地に入っていく方法がありそうですが、ガードと井手をまたぎ、大きなママチャリで行くのは、どだいむりな話です。
 「そういえば……」
 あのときの場面が、絵里にうかびました。
 自転車とぶつかりそうになったとき、白ねこがあらわれました。ねこは、ガードレールをしゃがんで、この方角へ消えていったのです。絵里に、不安をふきけすかすかな期待がよぎります。島さんの家をたどれば、どこかにあのねこがいる予感がしたのです。
 『っぱり、家に案内してもらおう。もしかしたら、ねこに会えるかもしれないもの』
 祐一につづき和子が出勤した後、絵理は、島さんがきていないか、子ども部屋からのぞきました。一回のぞき、二回のぞき、一分おきぐらいに見ていると、やがて約束していた時間をすぎ、ソワソワしました。三度めにカーテンをあけたとき、見おぼえのあるママチャリがあらわれました。乗っている人はもちろん島さんです。
 「アレッ」
 絵理は、思わず小さな声をあげました。
 島さんは自転車競技やマラソン選手がよくつかう、太陽の光をキラキラ反射させる、少し大きめのサングラスをかけていたからです。
 皮ジャンとサンダルに帽子という格好さえ目立つのに、鏡のようなサングラスはとてもへんです。
 絵理は、おかしさをこらえながらマスクをはめ、アパートを出ました。
 「えりちゃん、ちょっと遠いから後ろにのっていいよ」
 島さんは、サングラスの向こうから、はしゃいだ声で言いました。
 「だめよ。二人乗りは禁止されてるもの。わたしは歩いていくからいいよ」
 絵理は、さっさと先をすすみだしました。
 「あっ、そうだ。えりちゃんは一輪車にのれるんだから、なんなら、それでもいいんじゃない?」
 島さんが真面目な顔で言います。絵理は相手にしません。
 「わかったわかった、おじさんもおしていけばいいんだ」
 大発見でもしたように自転車から下り、ハンドルをにぎったまま歩きはじました。ところがしばらくたってから、今度は島さんの方がなかなか前へすすません。
 「どうしたの」
 絵理が聞くと、
 「じつは、えりちゃんにたのみたいことがあるんだけど」
 神妙な顔です。
 「おじさん、ハンバーガーって食べたことないんだ。テレビで宣伝してるけどお店にいったことがないんだよ。よかったらいっしょに買ってくんない。ごちそうするから」
 そんなところへ行くなど予想していなかった絵里は、おどろきました。それでも島さんは、なんとかたのむといった表情で、眉をサングラスの上から八の字にします。
 「いいわよ。でも、あんまりゆっくりしないでね」
 返事を聞いた瞬間、まんべんの笑顔になりました。
 二人は、ようやく歩きだしました。
 ママチャリは、タイヤがまわるたびに、きしんだような大きな音をたて、両手でおす島さんの背中が、のそりのそりと動きます。絵理は、ずっと島さんのかげにかくれるようについていきました。
 交差点で島さんがとまります。井手ぞいにまわれば、島さんの家にいけるはずですが、反対方向の、さらににぎやかな国道を目指しました。
 島さんには、ああ言ったものの、絵里は、だんだんと店の中に入ることが不安になってきました。でも、いまさら引きかえすわけにもいきません。
 ハンバーガー屋の大きな看板とドライブスルーの標識が見えてきます。店には数人の客がいて、ドライブスルーには車はいません。
 彼女に、いいアイデアが浮かびました。
 島さんは、駐車場につくと、スタンドをいきおいよくけって、自転車をとめています。
 「おじさん、ドライブスルーで買おうよ。自転車に乗ったままでもいいんだよ」
 「へっ、そんなことできるの」
 島さんは、信じられなさそうです。
 「ほんとだよ。外から買えるの」
 絵理は、その場からだいたいの説明をしました。
 「そりゃあ、便利だね」
 買えることが納得できると、やる気満々になってきました。
 「あそこで言うんだよ」
 絵理は、車の停止位置を指でしめしました。
 「それからマイクでね、チーズバーガー、フィッシュバーガー、それにポテトのLってたのんで」
 絵里の言った言葉を島さんは得々とつづけます。
 「チーズバーガーとフィッシュバーガーを一つ。ええとええと、それからポテトのLだっけ」
 「いいよ、いいよ。その調子」
 島さんをおだてながら、受取り口を教えました。
 「注文がすんだらね、あっちの方にまわっていけばいいの」
 ふむふむと合点したようにうなづきます。
 「あとはお金をはらえば、ぜんぶすむからね」
 練習が終わると、彼女は少し離れた場所で見守ることにしました。
 自転車にまたがった島さんは、わざわざスピードをつけドライブスルーに入りました。ブレーキをキュッといわせ、背中をかがめ、唇をマイクにくっつくくらいにもっていきます。
 首を少しかしげ、声が小さくなっています。
 緊張のせいか『ポテト』の言葉が出ないでいるようです。
 ほっとくわけにもいかず、絵里は手助けしました。
 「ポテトのLサイズだよ。おじさん」
 マスクをはずし、大きな声で言います。
「ああそうだった。ポテトのLください」
 受けとり場所を指でさします。島さんもそれにこたえるように、ほこらしげにペダルをこぎ、移動しました。
 窓口の若い女性の店員が、クスクス笑って、吹きだすのをがまんしている様子です。そんなことはおかまいなく、島さんは、ママチャリにまたがり、待っています。サングラスがまぶしく光ります。ちらりと絵里の方を向き、余裕の笑顔まで見せだしました。
 やがてハンバーガーの入った袋がわたされ、島さんは財布からお金をはらいました。しかし、そこから取りだしたのはそれだけではありません。大事そうに名刺まで差し出しています。店員は困ったふうでしたが、頭を下げました。 「やったね。おじさん」
 絵里は駆けより、背中をポンとたたきました。
 ママチャリのかごに袋を入れ、二人、またもと来た道へ引き返しました。
 絵里は歩きながら、なんだかうれしくてしょうがありません。
 島さんの家につきました。
 建物は、写真と同じように昔、店をしていたつくりです。
 玄関には木づくりの扉があり、大きな切り株のような取っ手がついています。絵里は島さんの置いた自転車の横をすりぬけ、島さんと二人、裏の勝手口へまわりました。
 サッシ戸の小さな扉に、鍵はかかっていません。
 扉をあけ、一歩中へ入りました。
 薄暗い部屋です。ほこりをかぶった、どこかカビくさいにおいがします。でも不思議とこわい気がしません。少し奥へすすむと、天井には、星空のようにあちこちにライトがうめられ、いっせいに点灯しました。厚い一枚板でできたカウンターが浮かび上がり、流しのとなりの棚にならべられた色りどりのコーヒーカップを映し出します。
 スイッチをつけた島さんが、カウンターの下にしゃがんでいます。サングラスははずしていました。
 「えりちゃん、さっきはありがとう」
 そう言いながら、袋からハンバーグやポテトをとりだしました。
 「あれ、カゼのマスクはしなくていいの?」
 島さんにそう言われ、絵理は、ハンバーガー屋からマスクをはずしていることに気づきました。
 「まっ、いいか。お礼にこれ食べてよ」
 店の壁一面が、下向きにつけられた白熱灯でほんのりと照らされ、明るさをましています。
 光は電球の傘を中心にひろがり、しだいにうすく溶けていきます。
 模様があるように思えた壁は、よく見ると写真がびっしりとはってあります。照明の反射で、一枚一枚が光っていました。写真でないところにも、便せんや葉書がすきまなくはられています。
 「アルバムやタンスの引き出しからあつめて、はったんだ」
 「これは?」
 絵里の目は、モノクロの一枚に釘づけになりました。一匹の動物が写っています。
 「むかし飼っていたねこ」
 「ねこ?」
 絵里の声は上ずりました。
 「ねこって、もしかすると白いやつ」
 「えりちゃん、どうして知ってるの?」
 島さんも驚いたように、目をまるくしました。
 「わたしの家のとなりの屋根にもきてたの。おじさんと最初に会った日もね、一輪車の前をとおりすぎて、こっちにきちゃったんだけど」
 「へえ、そう」
 島さんは、感心しました。
 「それに、わたしのおばあちゃんも、小さいとき飼ってたんだよ」
 写真のねこは、階段の真ん中で横になり、脚をのばしていました。毛色や目の色がほんとうはどうなのか、古い写真なので、はっきりとわかりません。
 「近くにすてられてたねこでね、ジャックって名前だったんだ。片目がつぶれてたから。でもけっこう長生きしたんだよ。えりちゃんにも見せたかったな」
 それから島さんは、なつかしむように目もとを細めました。
 小さな赤ん坊が男の人にだかれている写真もありました。男の人の顔は、今、目の前にいる島さんそっくりです。
 「これがおじちゃんとおやじだよ」
 写真は、つぎつぎとピンでとめてあります。
 赤ん坊は、やがて半ズボンをはき、乗り物にのってポーズをとりはじめました。
 「この人は?」
 スカートをはいた女の人を指さしました。
 「おふくろ。小学校のとき死んじゃったけどね」
 男の子は、女の人のすぐ横で、白い歯を見せ笑っていました。
 少年は、やがて中学生ぐらいになりました。だけど、学生服や友だちとの姿は一枚もありません。どれも一人か、あとは父親か母親とのものです。ときに、流行りの帽子をキザっぽくかぶったり、むずかしそうな顔で腕をくんでいます。写真がすすむにつれ、しだいに大人になり、風ぼうが今の島さんになりました。エプロンをつけて店で働く姿になり、フィルターにお湯をそそぐ一枚がありました。表情は今とかわらず、のんびりと気ままにやっている感じです。絵里がもらった写真と同じように、父親といっしょに肩を組んでいるのもあって、背中にはクリスマスツリーがかざりつけてありました。リースも扉にかけてあって、今にもクラッカーの音がしそうです。
 店の改築の写真もありました。内装がこわされ、柱がむきだしになっています。壁が少しずつはめこまれ、美しい壁紙や塗料がぬられています。なにもなかった板ばりのフロアにテーブルや椅子がならべられていきます。
 絵里が写真に見とれていたときでした。
 裏口の扉が開く音がしました。床を、一歩一歩、きしませ近づいてくる足音がします。絵里は、すぐにマスクをはめました。お腹に、じんと重いものがきました。
 島さんは、安心させるように絵里に目配せしました。
 背広を着た人が、頭を柱にぶつけないよう用心しいしい、前かがみで入ってきました。髪の毛から、鼻をつく油っぽい匂いがします。
 島さんに簡単な挨拶をすませたあと、
「どこの子どもさん?」
 「うん? オレのおともだち」
 絵里の方をちらりと見ましたが、後はあまり興味なさそうに島さんの方をふりかえりました。少し急いでいる様子です。
 「島さん、やっぱり、ホープヒルに入るつもりはありませんか?」
 「ないよ。ぜんぜん。あんたもしつこいね。おれはこのままがいいって言ってるでしょう」
 返事を聞くと、案外とかんたんに引き下がりました。もめごとが起きなかったことに絵里はホッとしました。
相手は、今度は、ニンマリし、声色をかえ、
 「それはそうと、新しいの、かりにきましたよ。そろそろ買うころだと思って」
 それまでとはちがい、親しげな様子でしゃべります。
絵里のとなりを慣れた足どりですぎ、壁ぎわにある縦縞のカーテンをあけました。
 スチール棚には本のかわりに、こぼれ落ちそうなぐらいにたくさんのビデオがならべてあります。カバーには、男と女の人が裸で抱きあうプリントがしてありました。
 「てきとうに好きなのをもっていっていいよ」
 島さんにそう言われ、相手は満足そうに三つ選びとり、肩にかけていたショルダーバッグにつめました。
 「サンキュー。またしばらくしたらきます」
「いつでもどうぞ」
島さんは、満足そうに答えます。
「好きだね。これだけはわすれずにくるんだから。こんなのどこがいいのやら」
 男が立ち去った後、島さんはひとり言のようにつぶやきました。
「わたし、帰る」
 彼女は、急にそこをはなれたくなりました。いっときも早く外に出て、空気を吸いたくなりました。
『みんな、キライだ。白いねこなんかもウソだ。ぜんぶでたらめだ』
島さんの呼び止める声がした気がしましたが、だれなのか、何の音なのか、わかりません。少しでも早くアパートに着きたかったので、思いきって、空き地をつっきる方法をえらびました。そこなら島さんが自転車で追いかけてくる心配もありません。 
 来た道とは反対側から、空地へ入りました。
足を踏み入れたとたん、少しこわくなります。人気がなく、それでいて、向こうからいきなりだれかがあらわれそうです。そのたびに息をととのえ、じっと先をうかがい、急ぎ足で、またつぎの草かげをめざしすすみました。
 草むらをこえたところに、古い建物がありました。
絵里はとりあえずそこまで走りました。
地面は大きな石ころや、雨のふったあとの水たまりやへこみもあって、でこぼこしています。建物は、そばにいくと意外に大きく、うらがわから、お風呂の浴そうや水道管がむきだしになっているのがのぞけました。かべはところどころはがれ、板がくさっています。人が歩いたらしい、はっきりした道の跡もあり、絵里はそこをたどっていきました。
やがて井手の流れる音と車の音が聞こえ、こわれかけたブロックべいが近づいてきました。
 へいの向こうにアパートの屋根が見えます。
どれだけ歩いたのか、よくわかりません。
 クラクションの音がします。井手の前で、左右を見、だれもいないのをたしかめます。ガードレールの切れまめがけ、なんとか着地できました。
 玄関を開けます。家の中は静まり返っています。絵里は二段ベッドの上で布団にくるまり、小さく身をちぢこませました。
 それから、ひと月が過ぎようとしたときです。
 陽射しは強まり、アスファルトの照り返しがまぶしい季節になりました。
 絵里は、夏ものの買い物をしに、親子三人で車で出かけました。
 車は島さんの家の前をとおる道を走っています。
 絵里は、ふだんどおりすました顔です。
 「細い道だけど、けっこう町まではやくつくのよ」
 車は、左へそれ、ガードと井手に囲まれた空地を、外からまわります。遠まわりなのに、車だと絵里が空き地の中をこえたのより何倍も早く着きました。
 「この道をもっと広くすれば、今より便利になるのにね」
 和子はハンドルを動かしながら、話しかけます。
 やがて、見おぼえのある家が近づきました。車は、手前の信号で停車しました。
 「何かあったのかしら?」、
 救急車が止まっていて、表に人があつまっていました。
 絵里は後ろの座席から、何気ないふうに見ていました。
 患者は車内に運ばれているらしく、救急車はサイレンを鳴らし、出ていきました。見物人も、すぐにあちこちへちっていきました。
 ママチャリが一台だけ、ポツンとそこに残されていました。

『白ねこと少女』その6

 
6 炎を駆ける白いねこ

 その晩、絵里は近くやってくるかもしれないことを想像しました。
 場面は、昼下がりの午後です。
 買ったばかりの服に着がえています。買い物でえらんだ黒っぽいワンピースです。
 彼女の足はまよわずに、島さんの家へ向かいます。見えない糸にあやつられているように、裏の空き地を、知らず知らず動いていきます。空き地は絵里だけに用意された秘密のとおり道です。絵里の背をこすぐらいにおいしげった草もブロックや建物の壁も、今では身をかくせる大事な場所です。
 島さんの家には黒と白の布の幕がひかれています。葬儀に訪れた人は、悲しみにくれ、その中で一人だけ、見おぼえのある男の人が真面目な顔で案内しています。
 絵里は男に気づかれる距離までわざと歩きます。そのうち相手と目が合ったとき、わざとマスクをはめます。相手はそんな絵里をまじまじと見つめます。
 「あなたの思いどおりには、いかなかったわね」
 それだけをキッパリ言って、その場を立ち去るつもりでいました。
 実行されるかどうかわからない、絵里だけの空想です。
 「一人暮らしだったらしいわ。ひと月前にお父さんを亡くしたばかりで……。本人は小さなときから発作があったらしいんだけど。週に一度きていた、うちの福祉課の担当が発見したからよかったものの」
 次の日の夕方、和子も、昨日の出来事は気になっていたらしく、仕事先から仕入れてきた情報を話してくれました。
 島さんは無事でした。
 和子によれば、薬を一回ぶんまちがえて多く飲んだようで、布団に入ったまま意識が朦朧となっていたのでした。枕もとに飲みかけのコーヒーが置いてあったそうです。
 「施設の入所になるでしょうね。本人は入りたくないらしいけど。このままじゃ、だれも面倒を見る人もいないし、しかたないわ」 
 「施設って、ホープヒル?」
 「えりちゃん、よく知ってるわね」
 和子が感心したように言います。
 それから、またひと月が過ぎた日のことです。
 絵里は、和子たちとデパートの食品売り場にきていました。祐一は母親といっしょにキャスターのついたワゴンを動かしています。絵里は少しおくれて、ついていきました。
 ふと横の通路を見ると、十人近く、ぞろぞろ買い物をしている列がありました。
 制服姿の職員が二人、前と後ろをはさんでいます。
 絵里は、ドキドキしながら目をやりました。
見おぼえのある皮ジャンと帽子が、人と人のあいだから見え隠れしています。「あっ、おじさん」
 絵里は、見つけるが早いか数歩近づき、声をかけました。
 島さんは、服装は同じでも、サンダルは運動ぐつにかわっていました。背中が心なしかまがり、体がひとまわり小さくなった気がします。
 「えじちゃん」
 最初に発した声は舌がまめらず、聞きとりにくいものでした。両目もトロンとしています。
 「わたしのことおぼえてるのね?」
 絵里もマスクのまま話しました。島さんは力なげにうなづきます。
 職員が近づいてきました。島さんの肩口をだき、親切そうに、ひと言ふた言、話しかけながら列のほうへみちびきます。島さんは職員にしたがいながら、絵里の方を見ていました。絵里も顔を向けましたが、あっちへいってしまいました。
 和子が、品物をレジにとおしているときです。
 ホープヒルの職員があわてた様子で、店長と話しています。
 「すいません。すぐに探しますから。放送はしなくてけっこうです。かえって本人が混乱しますから」
 あわてぶりから、だれかがいなくなったことがわかりました。残りの職員に連れられた人たちが、横で待っています。絵里はそこをつぶさに見ました。
 帽子と皮ジャンがありません。
 「ちょっとトイレにいってくる」
 とっさにうそをつき、絵里は店の奥へ入っていきました。もしかすると、と思える場所があります。それは、レジとはまるっきり反対側です。
 近づくとベルの音がしました。
 何度も聞こえてくるその音は、デパートには不似合いな感じです。まちがいない。その気配におぼえがありました。ペダルがこがれ、タイヤとチェーンがカタカタ回っています。
 「おじさん」
 絵里が声をかけると、島さんは自転車に乗ったまま顔を上げました。スタンドを立てた状態で、売り場の人が、用心のためたおれないようハンドルを押さえてくれています。島さんは、不満そうに口をつぼめていますが、目には光がやどり、まっすぐに絵里を見つめています。タイヤのリムと数十本のスポークから、足で力がこめられるたびに風が起きます。カラカラと気持ちよさそうに、島さんは、宙を駆けているようです。
 『あっ、白ねこだ』
 絵里には、島さんと自転車が、ねこと重なっています。ようやく探していたものが見つかったような気分です。
 「島さん、だめじゃないですか。こんなところで」
 怒気をふくんだ声が、流れていた空気を絶ちました。
 ホープヒルの職員が歩みより、店員にすまなそうに頭をさげています。島さんを自転車から下ろすと、二の腕をギュッとつかみました。島さんは、抵抗しません。足を交互にゆっくりペダルからはずし、サドルからお尻を上げます。その動作が、いたずらを見つかった子どものようです。
 白ねこはいつのまにか、いなくなっていました。
 『おじさん、ぜったいにまた、ハンバーガーいっしょに買いにいこうね』
 職員に連れられていく後ろ姿を見送りながら、絵里は、心の中でつぶやきました。
 夏休みになりました。
 蝉の声が、耳の中をゆする季節がやってきました。
 絵里と祐一は、晃といっしょにキャンプに来ていました。
 月に一度の晃からの提案です。
 絵里は、最初、行くかどうか迷いましたが、祐一がどうしてもテントで寝てみたいというので、つきそいのつもりで出かけました。
 キャンプ場には、自然の川に手をほどこした長い急流の滑り台があって、思うぞんぶん遊べます。
 準備した材料で、バーベキューをしました。
半円の小型のドラム缶に炭火をおこし、その上に鉄のあみをのせて焼きます。ときどき肉からあぶらが落ち、炎に勢いがつきます。祐一は、ひさしぶりの父親とのひとときに上きげんでした。絵里は、そんな祐一を横目に、晃といられることをうれしくも、どこか面倒くさく思いました。
 そろそろ焼けたという晃の言葉に、絵里は、こげめのついたフランクフルトを頬ばりました。薄い皮に前歯があたると、はじけるようにわれ、口の中に汁が飛びちります。晃は手ぎわよくわりばしを使い、肉をうらがえしたり、ナスやキャベツをのせたりします。
 日がしずみきり周囲がすっかり暗くなると、たき木を集め、キャンプファイアーをしました。祐一はさかんに土手の方へのぼって木ぎれをひろい、炎の中へなげこみます。
 そんな祐一を見ていた絵里は、ふと立ちあがり、テントの中に入っていきました。絵里の手に、小さな毛糸の織物がにぎられています。
 そっと晃の前にさし出しました。
 「パパが送ってくれた織り機であんだの」
 花瓶を置くには、ちょうどいい大きさのコースターです。
 「わあ、すごいな。もらっていいのかな」
 いかにもうれしそうです。   
 「だめよ。ママにあげるんだから。ただ見せにきただけ」
 きっぱりとした声は、晃の耳をかすめ、闇をぬけ、遠くまでとどきます。晃は、わざと両手をひろげ、残念そうに首をふりました。 
 炎は、けっして大きく燃えたっているわけではありません。マキの表面をなめるように細かにひろがっています。
 乾いた部分がまんべんなく燃え、一皮下が、赤く色づきはじめ、燃えうつったところは、チラチラと点滅します。やがて、ガラリとくずれる音を合図に、大きな炎が、芯まで燃えつきさせる勢いで一気にひろがります。
 たき木の表面に浮かびあがった暗い部分と赤味をおびたコントラストは、呼吸する生きもののようです。
 晃がなにかを言いかけようとしたときでした。
 「人も、こんなふうに燃えるのかなあ」
 「え?」
 意外なつぶやきに、一瞬、言葉をのみこみました。
 炎を見つめていた絵里の頬に熱気がつたわり、赤く照らされています。晃は、横顔を見ながら、少しだけ眉をひそめ、怪訝な顔をしました。そして、もう一本マキをくべました。
 炎のゆらめきは、絵里には一輪車のゆれに見えています。ペダルと腕でバランスをたもち、一本の軌道をたどっています。
 「あっ」
 絵里が声を上げました。
 白い毛をはやした生きものが背をかがめ、すばやい動作で炎を横ぎりました。
 やっぱり生きてたんだ。
 火の影のように一瞬あらわれ、そして消えたものが、白いねこであることを疑いません。
 暗闇に光を放つ炎の中を、彼女の一輪車はそれでもたおれずに、だれにも知れず、はしりつづけています。
 絵里は、白いねこといっしょに、車輪をまわしつづけました。(了)
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