2007年02月03日

『ダスト・イマージュ』/その一

               ダスト・イマージュ

 
蒲団の襟を鷲づかみにし下からはねのけると、里子の白い太腿が見えた。下着は何もつけていない。股のつけねのところが暗く陰を持っている。性毛なのか二本の脚が折重なることで出来る窪みのシルエットは鈍くて赧い。
 ぼくには昨夜のことが、今思い出せない虚ろなものとして躰の内側の肉の襞をゆっくりと嘗めるようたゆとっている。実はそうなっていることを既に知りながらも先送りしようとする茫漠とした意識に抵抗しようとはしていない。酒臭い息が自分の躰の奥から寝ている隙に染み出て来、暫く抜け切ろうとしながらもその数時間かの記憶を前頭で手繰っていくことに曖昧さでほだそうとしているかのようだ。
 「ねえ柚木君、今何時?」
 里子がカーテンから洩れてくる僅かばかりの明りを額の辺りに受け止め、眩しそうに眉間に皺を寄せる。少し膨れた顔つきで眼もとを顰めている。
 「まだ七時前だよ」
 ぼくも、枕元に置いてあった目覚まし時計に眼をやる。確かに針は文字盤の上に重たげに張りつき、七時ちょっと手前を差している。とするとあれから十時間は過ぎていることになる。やはり思い出さなければならないのだろうか。ぼくは、寒さげに蒲団を裸体の丸みのある腰から足首に添って掻き被せ邪険に掛け直した里子を隣に寝かし、気持ちとは裏腹にぼんやりと多少引き延ばすことはできたとしても、またすぐに戻らねばならぬ地点がしぜんくるであろうことぐらいに心の隅に思い、また同じく横になった。神奈川から沖繩の高校へ移り、沖繩から今度はこちらの県にやって来て早いもので半年になる。といってもここは父母の故郷でもあり、母方の祖父母はまだ健在だ。だから沖繩の高校をいよいよ神奈川と同じように、それでも理由は全く同じではなかったのだが退学になるとすぐに父親も母親もそして自分も迷わずにこの地を選んだ。つまりぼくにとっても、家族にとってもここが最後の場所だったというわけだ。最初に沖繩ではなくここを選ばなかったのにはそれなりの理由があった。母親の友人の夫があちらの大学である程度の地位にありその付属の高校に便宜を図ってくれたこともさることながら、なによりもこちらにはまだ親戚がかなり居座っていてその目を憚り配慮してのところが大きい。しかし、そのことも今となっては隠し立てする段階ではなく、頼れるものは頼ってしまおうという、開き直った窮余の一策と言ったところがないわけではなかった。それにぼく自身、あの頃は現実というものを見ておらず観光気分のところが少なからずあった。どうせ新しく高校生活を送るのなら沖繩へ、そんな生温い気持ちが拭うにも拭えぬぼく持ち前の気楽さと同居する形である一部を満たしていたことを今更否定はしない。一年半通った沖繩の私立高校を辞めてから半年、今ぼくは、この県にある大学入学資格検定の専門の予備校に通っていたのだ。
 「柚木って変わっている名ね、それ本名?」
 初めて里子に声を掛けられたのは、そんな言葉が切っかけだった。ぼくと里子は、頂度一週間違いでこの予備校に入って来た。大検の場合、毎年全国一斉に八月初旬に試験が実施されるため、この予備校も形だけは四月と九月になってから進入生の募集は行われている。春は、その年高校新学から炙り出された者や、その時は担任の言うことを聞き、相手が指示したとおり試験を受けてはみたもののいざ合格してみるとどうしても自分の第一志望とは違っているそのことが仇となり妙な自尊心と結び付き、結局しばらく通った後あっさり辞め、大検のシステムを知りこちらを選択してきた者も多い。また、両親の転勤が入学時と頂度重なり他県受験のケースで失敗した例も割合としては少ないわけではなかった。そんなことからも、検定試験が八月とはいってもやはり進入生獲得は、四月から六月にかけてがピークとなる。だが、大検予備校の最も特徴的な点は、一年を通して、むしろ春や秋以外のときにこそ様々な理由や事情を背負った生徒達が各々の表情の内外や、一見しただけでは見落としてしまいそうな陰りのようなものをそれぞれの好みに応じ装った私服や躰のあちこちに滲み込ませやってくることにあるといっていい。ぼくと里子も、予備校側の教師たちから見れば、おそらくそんなごく一般的なありふれた生徒の一人に数え上げられていたに過ぎなかったのだ。
 「今日は、授業に出るの?」
 里子は、冷蔵庫から取り出した爛熟しきったトマトをナイフで二つ切りにしレタスの載った皿に盛った。後は、コーンスープと目玉焼き、それに薄焼きのパンが、今日の朝食らしい。
 「私ね、お父さん死んでから結構まめに作るようになったのよ」
 「ずっとやってたってわけじゃないんだ」
 ぼくは、スープを一口啜りながら感心さは微塵も出さず何気ない様子で言った。
 「そう。だってお父さん私に台所さえ行かせなかったんだから。そんなものお母さんにやらせておけばいいんだって」
 トマトを齧りながらそう答えた里子の口元からは、赧い汁が一筋零れた。
 「ごめん、ティッシュ取ってくれる」
 ぼくは、箱ごと差しだし、相手はそこから二枚つづけて無造作に引き抜いた。その手が思いの他荒れているのにぼくは気づいたが、それについても触れようとはしなかった。
 「お父さん生きてるとき、よくお母さんと喧嘩して、お母さん何度も私に聞いたのよ。里子は、私とお父さんの一体どっちにつくのって。お母さんお金の使い方がとてもいい加減だったから、化粧品なんかも高級なのセットでお父さんに内緒でどんどん買うの。それでも全然反省しなかった。里子はどうせお父さんの方につくんでしょう、そうでしょ。私、この言葉一生忘れない」 
 食事を終え、ぼくと里子は一緒にその家を出た。古くからのたたずまいが石垣の造りなどに名残りとしてある柳の生え揃った川沿いの小道を歩き出し、昨日のことが当然のように少しずつ上澄みのように浮かんでき、後味と罰の悪さとが予期していたより多分にあることをぼくは知り、一瞬溜息つきそうになった。そのことに凭れかかれそうになって、それでもどうにかいつでも身は翻せるだろうというぐらいの気易い気持ちで平静さを保とうと思ったが、そんな自分の心理に思い当たる節があり、ついつい歩を少しばかり先へと早めた。
 ぼくは、肩越しに見える里子の横顔を窺おうとし、それを思いとどまるのに時間はそうかからなかった。里子と初めて言葉を交わしたとき、まさか二か月もせぬうちにこんなにも早く関係を持とうとは予期してもいなかった。遠い予感めいたものはなきにしも、ここで全ては思いがけない方向に進んでしまったと言えば嘘になる。昨日映画を見ようと誘ったのは、何を隠そうぼくの方なのだ。映画は、ホラーの二本立てで、夢と現実が一緒になりいかにもおどろおどろした怪人が現れ暴れ回り人体が宙に浮かんで破裂したり、骨が突き出し青いドロドロした血を流し、細胞がめくれ赤く変色し突然変異して獣に変わったりといった、どちらも最近流行のありふれた内容のものだった。二人はそんな映画を殆ど無言で見ていた。途中、里子がトイレに立ったとき、何か一言、言葉を発したような気もするが、今、ぼくには思い出せない。映画が終わるとそれからは、アーケ−ドを横に近頃新装されたらしい真新しい店の前で夕食を済ませようとぼくの方が先に足を止めた。「柚木君、いつも外食でしょう。よかったら私んちで食べない。あんまりたいしたものはつくれないけど御馳走するわ」今度はそんなぼくを里子が制することとなり、彼女の家に誘われるままに市電に乗り足を向けたのだ。いつも一人で食事をしているからつまらないと、それこそ所在無げに言う里子は帰りがてらコンビニで買った材料を小まめに使い、手際よく馴れた手つきで料理をつくってくれた。去年のクリスマスに買ってからそのままにしてあるというワインも、ぼくの手によって早いペースで、その日見た映画をこっぴどく批判しながら、一緒にぐいぐいと乾き切った胃にべとつく感覚もしばらく忘れ流し込まれた。
 里子と言葉を交わしながらぼくは、一つだけどうしても気になるものがあった。それは、彼女のうっすらと瞼にアイシャドーを当てた眼だった。肝臓と腎臓、それに心臓という三つの臓器を悪くし薬に太らせされた三年前の様子が唯一うかがえる、父親譲りの一重で切れ長の眼が、どうしてもぼくにはなにか息詰まるものとして感じ取られ、そこだけが別の彼女ではないかと妙に思案めかされた。ほかの者の意志が網膜の奥から二人の距離を測り、陰気でそれでいて刺すような光を放ち見詰めている、そんな気配が払い除けられず、それを振りほどきたいと何度もグラスを口に運びながらついに、ぼくは里子を抱いたのだった。里子は抵抗しなかった。服を脱がせるときも、胸元にぼくが、顔をうずめるときも。彼女は、不感症ではないかと思えるほど、溜め息一つ漏らさなかった。それでも彼女は、ゆっくりとぼくのペースに合わせるかのようにズボンのベルトを緩め、その隙間から腕を忍び込ませると、柔らかく指先で包んでくれた。お互いに裸になり、ぼくは仰向けになった里子の上から、その暖かみを確かめるように入っていった。
 同級生の喜代美のところへ寄ってから行くという里子と別れた後ぼくは、一度、自分の下宿先のアパートへ帰り、今日ある授業を確かめ出掛けてみようかとも考えたが、予備校が買わせたどれもこれも脱色したような鈍く照り返す表紙のテキストを見ているうちにきっと腹が立ってきてどうしようもなくなるだろうことを予め思い、それでも投げやることだけは今の状態では、絶対にぼくはしないだろうと自分の性格と絡め、しばらくぼんやりしたまま、そこから一番近くにある、アパートへ行くための市電の駅の途中にあるこの町では比較的ましな透明度を持った川の支流に縦に埋められている石堤ぞいを、重い踵を前に動かし煙草を吸っていた。苛立ちは、かなり以前とくらべると沸き上がってくる量に開きがあるかに思えた。それでも躰のどこかに節穴に似たものが重なり合い熱をもったまま逃げ切れず気孔を自らの膜で覆い、そこに針を刺したようなとば口を探し当て蒸気のように乱らに揺らごうとしているぼくの肉体が、やはりあった。そうやって、やがて身をすくわれそうになるのを無意識に防ごうとしているぼくの躰にとって、慌てぐらつくことよりもまず先に、煙を口から軽く吐き出し、内と外とのバランスを保つことに持したことは賢明とでもいえる方法だったろう。振り返るとまたそこに自分がいるという、当然の結末が招いた如るべき状態が今ここにあると言えば言えないこともなかった。舞い戻るということは一体どういうことなのか、最近のぼくは、そんなことばかりを考えている。ぼくは、今年で二十一になる。最初の学校に一年半、担任の教師と暴力沙汰を起こし居るにいれずそこを止め、しばらく何もせずぶらぶらした後沖繩へ行き、そこでまた一年と約五か月余りを過ごした。合わせて三年近く経た筈なのに、ぼくはまだ卒業資格規定単位数の三分の一にも満たっていない。出席数が足りないのだ。沖繩から帰った後は、呆れ返る両親を前にまたよせばいいのにバイク熱を吹かし、昔の仲間を呼び集めたがもう既に誰も以前のような関係でも無くなり、一人逸るぼくは、そのうち車と正面衝突するという大きな事故に遭ってしまった。筋肉が骨に巻き付き坐礁し、痛々しくも哀れな入院生活を一年間送らねばならぬ羽目となったのだ。その後退院すると万を持しこのKという地方の街へやってきたというわけだ。一度離れたレールにまた再び戻る作業が開始されようとしている。自分の意志で離れた筈のぼくが、それも今度は再び自分の意志でそのレールに足先を乗せ翻えそおうとしている。
 「わたし、二十になったらなんでもやめようと思っているの。タバコもお酒も睡眠薬も。安定剤だってきっとやめてみせるわ。そして二十からはしっかりとやっていきたいの。自分がどんな道を歩いているのかを自分でちゃんと確かめながら生きていきたいの。だってそうでもしなければ、死んだお父さんに申し訳立たないもの」
 里子が昨日、毛布の中で語っていたうわ言めいた言葉を今ぼくは、遠くから響く波の蟠りのようなものとして鼓膜にとらえていた。父親が死んだ後、里子はあらためて母親に幻滅したと言う。葬式の準備から通夜におとずれる弔問客の相手までなにもかも中心に動いたのは、そのとき中学三年だった彼女自身だった。母親は奥の部屋から一歩も出ようとせず泣いているのか生きているのかそれさえも判別がつかぬほど萎れ、何かことを運ぼうという素振り一つ見せなかったそうだ。妹はまだ小学五年生で手伝いらしい手伝いができる歳ではなかった。里子は葬儀のとき弔問に訪れた客の前に姿を現そうとしない母親を憎々しげに、心底腑甲斐無い存在だとそのとき以来思いつづけ、そしてある事件がその後引き金となりその憎しみは頂点に達し、今の家族の状況をつくりあげることとなった。母親は十九で里子を生んでいたため、父親が亡くなったとき三十四を迎えたばかりだった。
 「そりゃー、お母さんの気持ちだってわかるわよ。それまでほんとうにお父さんお父さんで、外に働きに行くこともなくて、ずっと家の中にいた人だったから。でもわたし、あのときのお母さんをゆるせない。絶対に許せない。わたしほんとうに親戚の中でたった一人だったのよ。叔父さんも伯母さんもみんな親身になって心配してくれる人も、それに悲しそうにしている人なんて一人もいなかった。なんで大人はあんなに平気でいられるの。わたし最後にお棺に入れられる前、お父さんの躰を何回も何回もさ擦って言ったわ。起きてお父さん、ねえ起きてお父さんって」

『ダスト・イマージュ』/そのニ

 父親が死ぬと当然生活の重みが女三人の家族にやって来た。
 そもそも父親の死は、日曜、職場のソフトボール大会の試合中頭痛がしだし、気分が悪いと倒れたまま会社の系列の産業医へ担ぎ込まれ、検査をしても結局原因は分からぬ仕舞いで、痩せ衰え遠くへ行った死であった。
 他の病院へ移すこともはっきりとした治療も出来ず死亡後の解剖だに許可されることはなかったという。そんな、今から思えば不可解な謎に包まれた死でもある。あのとき、もう少し親戚のものたちが強く会社に申し出てくれていたら、父親もあんな惨めな死に方はせず新しい療法の糸口の一つぐらい見つかり何らかの処方も下せていたのかもしれないと、里子は今でも思っている。解剖にしても後ひと押しがたりなかったのだ。とくに忘れられないのは、何人かの父親の職場の同僚たちが、このままでは死んだ本人が可哀想だと本気で乗り出そうとしたその矢先に、反対に今度は里子の母方の親戚に当る市議を勤めているという男が、誰が認めたわけでもないのに身内の代表の顔をして、それを言葉巧みに抑え込んでしまったという経緯だった。死を迎えてしまった今となっては、ことさら問題を荒立てたくない。死んだ当人もそんなことは望んでいないはずだ。それより静かに今は野辺へ送ってやりたい。同僚たちも血縁ではないとはいえ親戚の一人であるその男の意見をさすがに聞き流すわけにもいかず、しかも、その男はどうやって折り入ったのか、会社と交渉しわずかの補償金と見舞い金を得たことを自慢げに里子たち親子に話して聞かせたのだった。里子は、その男を、今でも恨んでいる。
 「それからその人は、わたしたち家族のすることになにかと口を挾むようになったわ。お母さんの仕事のこととか。わたしや妹の学校のこととか。わたしもこう見えてもまだ中学までは結構勉強できてて、こっちの方じゃわりと有名な私立の高校を受験してみないかって担任に勧められていたのよ。わたしもほんというとちょっぴりその気になっていたところがあったんだけれど、お父さんが突然死んでとてもそういう気にはなれなかった。それにお金のこともあるし。だけどその人がお金のことはこっちで面倒みるから行ってみろって何回もいうの。しつこいくらい。それにつれられてお母さんも、葬儀のときにはとても普通の人とは思えないくらい元気がなかったのに、まるで人が変わったように嗾けては言い出すの。里子はそれでもお父さんの子? 最初から諦めるような真似だけはしないでちょうだい。あなたがT校に通ることは家族も親戚もみんな望んでいることよ。今一番大事なことはあなたががんばってT校に合格することでしょ。わかるわね、里子」
 「……それって、とてもたまらない。」
 里子は確かに黙ってしまったと思う。
 そんなふうにして絆されることに、ぼくはさして悪い気持ちはしなかったが、そのときは、そう簡単にはされまいと逆行する流れ以上に、少々眠気がやってきていたこともまた事実だった。
 「でも、わたしはわたしで、お父さんの死からなかなか立ち直れなかった。わたしだってがんばろうと思ったのよ。もし今わたしにできることが受験に合格することしかないとしたら、それに賭けて精一杯やってみようって考えていたの。それに成績が、今までどおりに気持ちに付いてきてさえくれればできる自信があったし、お母さんや親戚の人を見返してやろうっていう気持ちもちょっぴりないことはなかったのよ。わたしはわたしなりに、学校でそれ相応に他人に認められている存在なんだっていう自負みたいなもんもあったわ。ところがそんなとき、なんだか原因は分からないんだけど熱が襲ってきて止まらなくなったの。気分がわるくってとても勉強どころじゃなくなった。学校はまだ三学期が始まったばかりで、わたしも休みたくはなかったけど、熱が引かないものだからどうしようもなくなったわ。病院にいっても原因をはっきり教えてくれない。お母さんはそれでわたしがてっきり勉強したくないから、それで精神的に負担が大きくなって、それが引き金になって熱が出ているんだろうってそう思ったの。市立の病院の精神科へ強引に連れていったわ。病院てね、自分の意志で行ったていうんじゃなくて、人から入らされたってなると反発が強く生まれて治療とは逆行する方向に向かっちゃうところなの。それでますます酷くなって、三十九度三分の熱が十日間続いたわ。結局は二日に一遍の通院生活が始まって、お医者さんの方も最初はわりと年配の人が担当してたんだけどお母さんが受験のことが原因なんです。わかっているんですって最初言ったもんだから、それならなんとかしましょうってそれに関係したことばっかり聞いたり質問したり色々するけど……、もちろん本人にしてみればそんなこと少しも理由じゃないんだから、ぜんぜん効果がなくて駄目だった。お母さんもお父さんが死んだ上にわたしまで病院に掛りっきりになったからとてもすることなすこと乱雑になってきたわ。私に対する口の聞き方も以前とは雲泥の差よ。これでわたしはあなたに一生縛られなくてはならなくなった、どうしてくれるのって文句をあけすけに言い出してくるの。わたしの方だって、学校を週に三日休まなくちゃいけないことがとっても耐えられなくなってきた。当然でしょう。でも少しは幸運だったのが、そんなときしばらくしてお医者さんがまだ研修を終えたばっかりの若い人に変わったってことね。カウンセラーのときとにかくいくらか自然な気持ちでこれまでのことを話せるようになってきたわ。そしたら、わかった、君はほんとうの病気じゃない。お父さんが亡くなったショックでそうなったんだねってすぐにそう了解してくれて納得すると内科に移してくれた。……腎臓がわるかったのよ。でも問題はなかなか解決しないものよね。それからは白い錠剤薬を日に何回も飲まされて、その副作用で体重がどんどん増えていくことになってしまったの。わたし、もともと好き嫌いが激しかったせいでガリガリに痩せていたから、最初は頂度よくなったってよろこんでいたぐらいだったんだけど、でも太るのは止まらないしそのうち心配になって。拒食症にだけはなるまいって注意してたけど、やっぱり少しづつご飯食べなくなっちゃって終わりの方では点滴とか栄養注射で間に合わせるようになってしまったわ。あれって躰にほんとよくないからこれじゃだめだってなんとかしようって、料理の本買って研究した。とにかくどうしたら痩せれるか真剣に考えたの。何千カロリーでどれだけ食べれるかとか炭水化物をできるだけ減らして、動物性じゃなく植物性蛋白質を多くとるにはどうしたらいいかとか、その他もろもろよ。工夫して自分で料理して。運動も適当に取るように、病院から帰るときは一駅手前で電車から降りて家まで歩いて帰るようにしたの」
 里子の話をぼくは、蒲団の中で聞いていたのかもしれない。寝息は微かに、軟らかい骨を持つ生き物が鳴き声を遠く山を隔て響かせ、それが幻惑のようになって聴きとれるようでもあり、闇の薄い被膜の中に二人だけが心音となって幽閉されているようでもあった。置き時計の鳴る音が壁を静かに伝い、宙を溶け詠めいた。
 市電の駅から降りたぼくは、自分のアパートに帰り、里子の言葉を思い出してはみたがとても脈絡のあるものとは思えなかった。話は、筋そのものの通っていることと対等にその反対分だけ今の彼女とそぐわぬことの方がおもしろく、多少合点の経路を止どまらせやや遠回りにさせていた。どこか知らないが終わりにいくに従い霧散させてしまっているようなところがあった。ぼくは取り敢えず予備校に行ってみることにした。予備校までは、アパートから歩いて十分とかからない。
 ビルの二階の部屋へ向かう階段には、煙草の吸殻が何本か無造作に落ち、滑り止めのゴムが土を漉しふやけたように灰白色に染まりながら外に晒されていた。部屋は市電の通る道路ぞいから外に向かってガラス窓で覆われた教室が一つと、事務所に挾まれる形で真ん中に職員室とも生徒の溜り場ともつかぬ奇妙な部屋が閉ざされた蒼白い巣窟めいた雰囲気でつくられていた。
 数学を担当する篠見が、生徒と一緒に煙草をふかしながら、なにやら彼独特の畳みかける話し方で、周りにいる者を諭すように動作を交えていた。
 「お、リョウイチ君、久々の登場です。なにしてた最近顔も見せずに」
 ぼくが扉を開けるとすぐに、その声がこちらの方に投げられ、その隣に椅子を近づけ構える姿勢をとっていた男子生徒の大田と佐伯が、ニヤリと嗤いながら、しばらく欠席していた者に対する揶揄めいた矜持と、それでもその底ではすばやく宥め合うぎこちない親しみを顔色に走らせ、迎えてきた。彼らにとって欠席とは、授業に出ないことではなく、この部屋に姿を見せるか見せないかということだった。「柚木、お前、ほんと今までなにしてたんだ? つまらんなあ」
 篠見は、おもむろに煙草の灰を皿に捨てながら、眼鏡越しに笑みを心底馴染ませた瞳で、ぼくの動きに合わせ気色を追うように首を持ってき、なんとはなく落ち着けた。教師用の机が向かえ合わせに置いてあり、そこに横付けする形で矩形のかなり大きなテーブルが据付けられ、教師二人に生徒が五人もくれば一杯になるその部屋には、煙草の煙が厚いガスのように頭上に円形を占め充満していた。
 「最近どうしてたね、病気はしてなかったかい」
 篠見の言映ゆい質問は、ぼくには予測できていたことであっても、今さらそれを聞かずにすまされようとは思っていなかった。その声は優しげであり、事実、なんらかの粘着と皮膚を通してくる許容の響きをもってないこともなかった。ぼくが初めてこの予備校にやって来たとき、アパートに最初に訪ねてきたのが篠見だった。
 ぼくは、そのとき街に出てぶらぶらと酒を飲み帰ってきたのは深夜だったのだが、鍵の掛けられた扉の前で彼は待っていたのだった。篠見の言葉には、聞き入れる構えと一緒に、それがたとえ逸れても取り込もうとする楽観の匂いの籠もった見掛けと、悪く言えば充分応え切れぬ筈なのに取り敢えず聞いてしまおうという成し崩しの相手への受入れの感情とが共存していた。ぼくはそれをわかっていながら、今日もまた里子と別れ、新めて知るよすがもなくこうしてまた、彼の言葉を耳に留めてしまうことを自分自身納得した上でここへやってきたのである。それは、日頃から行われている聞き慣れていた声に一応の歯止めをうち、実行に移さねばならぬ、決められた経路でもあった。
 「さては、サトコちゃんとなにかあったな」
 篠見の突然のその言葉に、今更、両側にいる生徒たちは別に驚きもしないし、冷やかしめいた口調をすることもない。それどころか、あんまりこの頃福島さん、ここに来なくなったと、髪を伸ばし後ろで束ねた大田が反対にぼくに変わって心配そうに言葉を継ぎ、一息するとまたさっきまで読んでいた漫画の本を机の上から拾い上げ、開きながら、風邪気味か鼻の辺りを気に掛け気に掛け手の指を当て、鼻を鳴らし首を横に軽くぶらす彼独特の動きを決まり切ったようにそつなくやってみせる。そんな生徒たちの中で見え隠れしながらときどき姿を外に現す篠見の表情は、笑いかけるといった目立った動作はなくとも生き生きと相手一人一人へ対応を分け、それが彼そのものの資質とうまく結び付いているように、ぼくには映った。時を刻むように停滞しては消滅する言葉、その言葉の流れと羅列が篠見の発する感情の起伏のうねりを特徴づけ、ここへくる高校を中退した生徒たちはそれに憚れ時間を埋めている。
 「そろそろ、社会見物でも行くか」
 篠見が生徒の顔を見ると退屈そうに煙草を揉み消し、待ち遠しいと言った感で背を少し後方へ伸ばした。
 「久本が新車買ったから足になってくれるそうだ」
 久本は、今一月半ぶりに英語の授業を受けていた。佐世保からやってきた生徒で、この予備校ではぼくの年齢にも一番近い二十になる。今英語を教えているのが地元の大学の一年生を非常勤で雇っていることからすると、教師の方が年齢ははっきりいって下ということになる。ぼくはこれまで彼と会ったことは春の入講式以来で、その時もおよそ話らしきものはせず、当然会ったと言う強い印象はなく、今すぐには思い出せなかった。そんなことなどを考え合わせれば、もし時間が経ち授業が終わってお互い各自の表情を見交わしなんらかの一瞥を加えたとしてもそれは煩わしいことでは別になく、これから引き掛かってくる多少の縁をそれなりに適度にごまかし成り行きとして受止め、そうこうしているうちにやむをえぬ引き際の遅延を招きかねないと言えないこともない。確かにあのとき、街中の文化会館の小ホールを貸し切って行われた入校式のとき、今ならまだ何らかの理解が持てそうな気がし、誰とはわからなく音楽の話を少しばかり興じたという記憶がぼくにはあった。結構名の知れた若い歌手のバックバンドを東京でやっていたとかなんとか、幾らかの話題を蒔き、だがその相手がはたしてだれであったのか。後で開け切ったようにあっけらかんと喋るのが、どうもその相手の特徴のようだった気もするのだが。もしかするとあれが久本か。ぼくは、誰に言われるというわけでもなく椅子に腰掛けると、今は煙の中に瞳の膜をいくらか濡らしながら、この部屋へ来てしまったことへの多少の疑念を自分自身へ晴らすため、そんなことを考えていた。漫画を読んでいた大田は、束ねていた髪を後ろにやり、今吸ったばかりだというのに煙草をまた取り出した。篠見はそんな彼らにいつもと変わりなく話しかけているようだ。

『ダスト・イマージュ』/その三

 
「芳弘、お前も最近勉強やってないようだしな。ここにきてそうやって毎日漫画読んでどうするんだ」
 大田は、今ぼくの目の前で煙草をくわえながら、やはり、さっきから同じ姿勢のまま座っている。実際、今現在、彼が出なければいけない授業は隣の教室でおこなわれているのだが、篠見自身特別それに関して言葉を言い足そうとはしないしまた、彼らも、どうこうした動きは見せない。
 「篠見先生、社会見物ってこれ?」
 大田が、ぼくの目の前で手のひらを胸横に幾分出し、指先を柔らかく曲げ回転させるポーズをとった。
 「こないだは佐伯がついてたんだよな」
 するとそれに答え、隣でなにやら訝しそうに去年の大検問題集をほとんど気にもしていなく、つまらなそうに見ていたもう一人の佐伯がようやく口を開いた。
 「あの時は先生後半追い上げて、俺はこの人、進む道間違えたんじゃないかと思った」
 篠見はそんな話をにやりともせず聞いている。
 ぼくは、里子が来るのを待っていた。うまく喜代美と出会えたとするとそろそろやって来てもいい時刻だ。だが、一体今ここでまた昨日からの繋がりの残る二人顔を合わせたとしてなにが起こるというのか。篠見と大田、佐伯の顔がその喉首を同じように震わせて皮膚に血の気をなくし煙を吐き出しながら、締め切られた部屋の空気をじわじわと温めている。そのそれぞれの目はお互い時折り眺め合いながら、それでも力なく篠見の方は腕を頭の後ろに回し、他の二人もゆっくりと今やっていることにそれほどの執着を見せることなく時間の経つことを退屈に待ちながら、そうすることが一番の存在しつづける方法であるかのようにしている。
 この部屋での時間の経過の仕方をぼくは、不思議な断片のようなものの切り張りだと思っている。
 篠見に誰もが依存する形をとりながら、また篠見自身もそうなるようにもっていっている。その中で集まる生徒たちは、それぞれの秘密を、それでも人から見ればどうとでもとれる実に取るに足りないことなのだが、篠見を含めそこへ集まる他の生徒たちと分け合い、受け取り、貰い、いくらかの安心を獲得している。そういった形は溜り場という場所にはどこにでも共通してあるのだろうが、その中に何と言っても篠見の力が加わって、この部屋の持つ雰囲気が形づくられている。篠見は、生徒一人一人と一致するものをつくり出しているようだ。それは全体の一部かも知れないし、それが徐々に次々と一致するものの連続を持ち続け増えていき、何人かの生徒にとっては、増え続けた分だけ、それが躰の中に僅かずつ溜まり、新たに次の一致を繰返すことへ向かわせているのかもしれない。やがて久本が教室から出てきたとき、その顔にぼくは、一瞬嫌なものを見てしまった気がした。
 「おつかれさまでした」
 篠見の、ことさら慇懃めいた言葉の後
 「俺はやっぱり、英語の才能があるね」
 久本の調子にのった声が零れ、それに対し僅かに遅れて出てきた講師も苦笑いし 「どうせ単語とかもほとんど忘れてたんでしょう」
 篠見の問いに答えるでなく、 「まあ、これからでしょうね」その部屋に居とどまる素振り一つ見せず、さっそく奥へ向かうその後ろ姿は、やはり学生のそれでしかないと、ぼくは思う。
 久本は、ぼくをちらりと見ても特別意識したふうでもなく「ああ、疲れた」さっきまでとはうって変わり、それでも明るい調子だけは尾に引きながら、残っていたもう一つの椅子に腰を下ろした。その躰のもって行き方はぼく自身が、はっきりわからぬながらも、以前自分の中に包み込んでいたものと奇妙にどこかで一致する気がしてならない。久本は、その部屋に入るとき、扉を少し開け下を見、それからおもむろに顔を上げ見回すかに見えながらすぐに視線を決め、篠見の場所に結局は持っていった。それは、両者とも納得した確認済みの手立てと部屋に用意された各人との繋がりの妙を思わせ、逆にいえば、投げやりさを仕舞い込んだ互いの移り加減さをごまかして見えるようで、ぼくにはそれほど愉快でないのだ。
 「それじゃ全員集まったし、さっそく行くか」
 篠見の言葉が、そこにいる生徒たちを奔放に掠め採った。それは重たくもなく、身の周りを絞り込む。そこから逃れようという気持ちは生みにくく、諦めとは少々違い、話のわかる人と言った程度に受け止められてしまうことを苦痛とさせないものを備えている。「俺は行かないよ」ぼくは、言った。
 「そうか、リョウイチは里子ちゃんと待ち合わせているんだったな」
 あっさりそう言った篠見は、大田、佐伯、それに久本とともに出ていった。ぼくは久本と結局は、言葉を交わすことはしなかった。しばらくして、また別の一人の若い学生のアルバイトの講師がぼくの目の前を過ぎ、五分ほど経つと帰ってきた。
 「一人も来てないな」
 「ここにいた連中だったら、さっきそろって出掛けていきましたよ」
 ぼくは、そんなことを意地悪く返しながらも、自分の内側に、常に年もおそらくこちらが上であるはずの相手に対する自分自身の燻った塊りのようなものを露骨に感じ取り、それでも視線はしばらく逸らさず、そのままにしていた。相手は、それを知ってか知らぬか「あーあ」と吐息をつくように甘ったるい声を上げ、また扉を開けると事務所へ引き返した。それから十分ほど過ぎたとき、足音が、にわかに階段を走った。息せき切るといった表現がぴったりそれに合っていた。階段を一気に駆け上がり、筋肉が微妙に上下しそれに乗り、その動きそのままを持続させる恰好を通し、おそらくは行為者当人さえ気づかぬ、扉を勢いよく開け、躰をもぐりこませる動作のようだ。金具の壊れた戸が鈍い音をいわせ軋まり、盛り上がった響きを残しては、また静まった。
 誰か来たのだ。
 ぼくは、教師に知らせに行くよりも初めからそうしようと決めていたふうに、隣の教室の方を先に覗きに行った。扉の中には、その隙間から斜めに入った角度にまだあどけなさの残った少女の顔が浮かび、形を少し細身にするようにして座っていた。ぼくは、すまし顔にこちらに気付く素振り一つ見せずにいる相手に対し、一方的にたじろぎそうになったが、気を取り直して足を踏み込み、挨拶した。
 「こんにちは」
 初めて見る顔だった。瞳が大きく見開かれ、そのせいか頬は膨らみをわずかに湛え、眼球そのものが一旦溶け再び丹念に彫られ描き直されてきたような雰囲気だった。道路側から差してくる日の光が蒼白く閉ざされたその空間を包み込み、肉の薄い顎にかけて一部暗くし、一瞬それを見るものに硬い感じを抱き取らせるようだ。ぼくの挨拶を敢えて拒否しているようなところが、少女の躰のどこかしこに潜み、それを彼女自身半ば承知し、それでも放っとくわけにはいかず耐え切ろうとしているかのように、すぼめた口もとといわず、堅く閉じた足もとといわず、その丸みを帯びる一瞬手前の肉体そのものからなんとなく漂わせていた。返事が戻ってこないことに、ぼくは、またそれが当然であるかのような気もした。周囲をつかさどる壁や黒板や机、それらの全てがその少女を穏やかに包み込みながら、あってないバランスをかろうじて保つことに尽くし、どこか一点ズレが生じればたちまち消え入ってしまうような、そんなあやふやな空間を僅かに垣間見せながら、今はまだ何とかそこに彼女を踏みとどまらせているようでもあった。
 「授業うけにきたんだろう」
 自分でも、むず痒くなるような声をぼくは出した。低まりながらも、外に張り出したふうな声だった。少女は微かに頷き、また眉を僅かに皺寄せ怪訝な態度をとった。それがぼくには露骨な嫌悪の表れだと映り、そろりそろりと教室を退き後ろ加減に引き下がろうとしたそのときだった。
 「あの……、あなた先生じゃないんですか」
 ぼくは、それですべてが、わかった気になった。勘違いというものは、時と場合によっては日頃以上に逼迫した型どりとそれを良しとするに適した整いをもたらす。今まであるバランスをもって迎えられていた周囲のものは崩れ、これが日常の風景だとでも言うように、またもとの姿に戻った。ぼくは、少女に近づき、
 「君は新入生だろう」
 できるだけ丁寧に言った。言ってからすぐにそんな調子の変化を平気で行える自分が、確かに初めてここに来た者からすれば場慣れした職員かなにかのような気がするだろうと思い、可笑しかった。
 「そうですけど」
 「僕は、君と同じここの生徒だよ」
 少女は驚きを半ば表しながらも、動揺したほどの乱れもなく
 「すみません。私知らなかったもので」
 首筋を伸ばし、ジーパンとトレーナーの上からスエードのジャンパーを着込んだラフな恰好で座ったまま返事した。身体の線は確かにあどけなく細っそりしているが、やがて膨らむ芽を醸しもった、今は冷たい質をたたえながらも躰中から洩れ出る息吹が混ざりあったような体つきだ。やがてはおとずれる波をゆるやかに呼び起こそうとでもするかのように、しかしそのことも知らぬ気に、本来出しあぐねている活発さを、やや全面に差し向かわせようとしているふうにもそれは見えた。

『ダスト・イマージュ』/その四

 少女の名前は井芹京子といい、中学を出たばかりの十五だった。
 一人で授業を待っていると、のっそりとした若い男が覗くので、きっとここの教師だと思い、それなりに気を許さず構えの態度をとった。しばらくしてあまりの相手の反応のなさに了解できないものを感じ、挨拶されたことの反動でついつっけんどんに尋ねてしまった、ということらしい。ぼくも、十五のあどけなさの中にも、もしかするとここへやってくる生徒特有のものなのかも知れない、肯んぜなさと稚なさと、それに逸れてきたことへの許しがたい抵抗という、言うなれば自己愛の偏りめいたものを持っているように思えたのも確かだった。
 この予備校では、もちろん授業に来ない生徒より来る生徒の方が珍しい。来る生徒は限られているが、その人数と照らし合わされた枠と仕組みを持つことでその者たち同志引き付けられ、そうかと思えばただちに離散しその枠内を回転するように順序だち秩序ではなく、それでいて秩序であるしかないものとして繋がり合う。また、それを欲するのだ。あるいは、これを履行する自分らを認めない。だが、現実はこうしてある以上なく、仲間の形成を畏れをもって待ちつづけ、共通という形さえない標しを自分らにもたらす。ぼくは、一瞬他の生徒と自分との関係を思った。篠見の、あの粗い網目の粘りの線に絡めとられたときのことを想像した。ぼくが講師を呼びに事務室へ行ったときは、学生のアルバイトは備え付けの新聞を眺めているところだった。
 「生徒来てますよ」
 相手は、「あっ、そう」と軽く返事をし教科書と出席簿を手に抱え出ていった。
 ぼくが、もといた部屋に腰掛けしばらくしてから、里子が喜代美を連れやってきた。喜代美は、今はアルバイト先で知り合った若い男と付き合い、彼女自身は、夜パブに勤めかなり躰に無理を利かせているようだった。事実、ぼくが初めて会ったとき、彼女は、実際の歳より、十は上に見えた。眼元といわず顔の表面そのものが落ち込んでいて、面窶れどころか、たった今の今まで重い病気に罹り辛うじて退院してきたのではないかと思われるほど疲れ方が全身から漂っていた。それが和んだものではなく、見る者に突き刺さってくるようだった。内臓の裏側から鈍く掠れた滞った咳を、喜代美は何度も繰り返していた。 「おそかったじゃないか」ぼくは里子が見る限り、いかにも待ちそびれたとばかりの口調だった。
 「篠見先生は?」
 「出ていったよ」
 里子は喜代美の顔にちらりと視線を送ったが、彼女の方も喜代美に負けないくらいぐったりとしたように椅子に座り込み、既にそちらに顔を向けてはいなかった。「ほんと、あの先生不良なんだから」呆れた節回しで喜代美の顔を見るだけ見、すかさずぼくに視線を移した。里子に言われてみれば、確かに勤務中、生徒を連れだってパチンコへ行く篠見も篠見であることに違いはなかった。篠見は何かと称してはよく外へ出ていった。授業の出席が少なければ生徒を呼びにいくことは当たり前で、近くに下宿している生徒はほとんど全てがその対象になっているのは確かだった。しかし、最近、そんな篠見の様子も変わってきていた。
 「篠見先生、結婚するんだろ」
 ぼくは、なんとなく噂で訊いていたことをたずねた。
 「でも相手のお母さんが絶対駄目だって、猛烈に反対してるそうよ。娘がこの人と結婚したら私は自殺するって、家族とか親戚に言い触らしてるって私聞いたけど」
 喜代美は煙草を取り出した。
 ぼくは、ここに来てまだ二か月しかたっていないというのに、いつのまにかこんなことまで話を聞き及んでいる里子が、どのような配線を張り巡らし他の生徒との間に交換を掴んでいるのだろうかと思った。その一つ一つの系路はぼくにとっても、また里子にとっても案外、それがもし管のような形をしているとして空洞部を外の索を切り開き見たとき、これまで触ったこともないような微粒の先細りする針と見紛う先端を持った線が走り、無数の流れにとられながらも、それでもわりとぼくと彼女は心地良くお互い何も知らぬ気にその先の行き手を見送り楽しんでいる、そういった耳にとどかぬかんまびすさを形に戻したような、往ったらそのまま消え入ってしまうことはない、少しでも形あるものとして残るものを包み込んでいる、そんな存在の仕方をしているという気がしないではなかった。 
 「山田さんは、今日は授業だろう」
 「そうよ。だけど、わたしが授業なんか出るわけないじゃない」
 「まあ、そうだろうけど」
 三人は、話していることにも退屈したふうに、十分も過ぎると、いつもこのようなときは、なるべくとるようにしているビルの隣にある喫茶店へ引き寄せられるようにして、出掛けて行った。
 井芹京子と外出から帰ってきていた篠見たち四人と頂度鉢合わせとなる恰好が、ぼくたちがその部屋へ戻ってきたときには出来上がっていた。
 「私の高校のときの英語の先生が自分は、特攻隊の生き残りだとか言ってね。叱るときは興奮して英語でがんがん喋るの。ユー アーア チーバー だって。チーバーってわかる? 雛鳥ってこと、つまり青二才ってことよ」
 喜代美が珍しく座につきしばらくすると、つい半年前まで自分がその中の生徒の一人として入っていた私立の高校の話を熱心に始めた。
 「その先生、物凄いアル中でね。毎日毎日お酒の臭いがぷんぷんさせて。特攻隊の三期生とかで、お前たちと同じ年のときはもう、お国のために志願してたって何回も言ってたわ。戦争終わって、東京行って、学校復学しても授業なんかないもんだから、それからアメリカ軍の基地でアルバイトしてたなんて自慢してたけど。そこで英語の通訳してたって。とにかく親方星条旗なんだから、なにやっても大丈夫だって。多摩川とか富士山とかにもジープでばんばん登ったり、深いところまでわざと渡って車壊して遊んでたって言ってたわよね。それからアメリカン・スクールでも働いてたってたいそうもったいぶった調子で喋ってた。そこを八年ぐらいして辞めて、建設の請負会社自分で興して、景気に乗って繁盛して、そのうちオイル・ショックで潰れて、仕方なく田舎引き返してきて、それでうちの校長と同級生のよしみとかで英語の非常勤講師でようやく雇ってもらって来てたんだけど。結局、仕事の前にお酒飲んで来るのが一度や二度じゃないもんだから、飽きれた校長がとうとう堪え切れて注意して、本人もカッとなって大声で校長や職員の先生たちに向かって、 アー ユー ジャパニーズって。『お前らそれでも日本人か』って叫んでさっさと辞めてったわ」
 「でもそれとお前が学校辞めたのと、どう関係があるんだ」
 篠見特有の間髪を入れぬ尋ね方に喜代美も、当時を思い出したのかやや興奮気味に、
 「それが、大有りよ。だってわたしその一部始終の目撃者だったんだから。たまたまそのとき職員室に、まあそれも前から目つけられてたんだけど喫煙のことで朝から呼び出しくってて、生活指導から注意受けてたのよ。偶然、そこにいたもんだから、びっくりしちゃって。で、その生活指導の先生、私が職員室出ていくときなんて言ったと思う? まあ、ありきたりのことなんだろうけど、口封じよ。いいか、このことは絶対他の生徒に言うんじゃないぞって」「それでも、その英語の先生の噂は広まっていった!」
 久本が、推理を当てる回答者のように声を上げた。喜代美も同調者を得たふうに、
 「そう、だから私が学校中に言い触らしてるってことになって。PTAの偉い人も出てきて、校長先生に注意したそうなのよ。こんなことでは困りますって。私は私でもうとにかく、馬鹿らしくなっちゃって。どうせ勉強する気もなかったし、やーめたって感じね」
 井芹京子は、黙ってその話を聞いているようだった。おおよそこの部屋に来て、ヤニ臭い壁に囲まれながら高校を辞めた当時のことを誰かが振り返りそれに対するのには、特に初めて来た者にとっては二通りの反応が用意されているのかもしれない。一つは、理由はどうであれ所詮は同じようなものが集まった場所なのだと観念し、それがそれなりに落ち着ける場所なのだと考えた上で、必要以上に求めることもしなければ、またあまり簡単に寄って掛かろうともせず相手の出方を窺いながらそれなりに判断し顔を出し、自分の抽き出するものと対等に割りの合うものだけを得ようとする態度をとるか、もう一つは、早々と見切りを付けまったく姿を見せなくなるかのどちらかだ。だが多くはそのどちらにも片寄れず、怒りのようなものと同居する形で、しばらくは踏ん切りのつかぬ状態が続くことも多い。
 「大体が、ここの社長は、俺たちが入るときはニコニコしていろんないいことばかり言ってるのに、実際入ってみるとかなり話が違うんだよな」
 久本が、さして大袈裟を装わず回りの生徒を気にすることなく言った。
 「どう違うんだよ」
 佐伯が絡む。
 「ベテランチューターが、学習に関しては相談にのるなんてパンフレットには書いてあるのに、いるのは篠見先生とアルバイトの講師とか退職した年寄りの先生ばっかりだろう。学生食堂だって、いづれ、一階に造るつもりだし、君のような下宿生には安い料金で食べてもらえるように努力するつもりだよなんて、今から思えば信じられないこと社長言ってたんだぜ」「しかし、久本、お前相談なんか受けようと思ってたわけじゃないだろうが」篠見のその一言に、
 「まあ、そうだけど……」相手は出鼻を挫かれる。
 「でも篠見先生だって、社長は、大狸だっていったでしょう」
 ぼくが、思わず横槍を入れた。
 「そうそう、言ってた。ブライダル・ローン組んでくれない、約束と違うって。あれほんと」
 芳弘も加わった。
 「お前らなあ、そんな話、一体どこから仕入れてきたんだ」
 「仕入れたんじゃないですよ。先生がでかい声で話してのが耳に勝手に入ってきたんですよ」
 ぼくも負けてはいられず、ついふざけ半分ムキになる。
 最近の篠見は、確かにぼくたちから見ても多少そう言ったことが、なかなか解決できぬ悩みとして映っているようだった。以前までのどこか開き直った中に適度に押してくる全体の動きが、最近、少しだけだが弱腰になってきているところがある。それは、躰と言わず、篠見自身の顔色の奥にある動揺をもたらす根の一部や、肩の線の僅かな歪んだ崩れに微妙に見えては隠れ、外に時折り表れ出てくるようだ。こうやって毎日が過ぎていっているというわけか。篠見はこの部屋で生徒達を迎え入れ、夜は定時制の生徒たちがまた何人かやってくる。そこでもまた、生徒たちとの話が交わされ、篠見は一人、彼のもつリズムをときには壊し破られながら生徒自身とのほとんど一方的と言って良い話の内容を聞き取り、いくらかの理解を示す返答と相手への決してマイナスにはならない筈の加減を考えた叱咤をほどほどに交錯させながら、自分だけが徐々にすこしづつ衰えの道をたどっていっているようだ。
 篠見自身まだ歳は三十にもなっていないのだが、彼が今、ぼくや生徒からの吐き出された言葉を受け入れる態度をとればとるほど、どこかで自信が冷え、なくなるまでもなくとも、自分自身の生活との軋みの僅かな隙間から思ってもいない方角へとかしぎ、それでもそのことを自分でもすべてわからぬながらも、この部屋の流れと言うかこの予備校の雰囲気自体を何とか持続していってるかに思えてくるのだ。

『ダスト・イマージュ』/その五

 「それ本当なのか?」
 ぼくが、里子から予備校をやめるつもりであることを聞かされたのは、二人が入学した年も明けた新年早々彼女の家でだった。
「幸い、私の場合授業料分割にしてもらっているから、今度の新学期から辞めるのは都合がいいのよ。それに社長もどうせ生徒に対して契約違反いっぱいやってんだから文句は言わないでしょう」
「辞めてどうするんだ、自分で勉強するのか?」里子はそれにはすぐには答えず、手元にあった新聞を引き寄せぼくの方へ差し出した。開かれていたのは、地方紙版の情報の案内欄だった。『求人』というところに赤線が一箇所引いてありぼくの目がそこにいくのに時間は必要なかった。

 求む。家庭教師・やる気のある人・一科目月一万・大検受験生

 その後小さく書いてある場所と電話番号、それに名前は紛れもなくここと里子自身のものだ。
 「へえ、これお前だしたの」
 ぼくは、いかにも感心と呆れた気持ちが混ざったふうに息を継いだ。
 「京子ね、井芹さん、」
 ぼくの反応を一瞬確かめてから
 「あの子も、これに参加したいんだって」
 里子は、さらりと言った。
 「一万円よ。今時一万円で来る人いるか不安だけど、来なけりゃ来ないでもいいの。まあ、最初から一遍でやるより予備校の方、科目減らすことは結構融通きくんだから、こっちの方との兼ね合いで新学期から断るってのも手じゃないのかって、そっちの方も考えたんだけど。科目が決まり次第、すぐに受けている科目削ってもらったりしてね。でも私にしたら、どうせ今のままじゃ、予備校行かないの目に見えてるしこっちの方がいいやり方かもしれないって思ったのよ」何の臆げもなく話す里子のこの案を、ぼくはさして良いこととも悪いこととも取らなかったが、一応の説明だけは聞いておこうと、相手に向かった。
 「採用するかしないかは、必ず京子と私の二人で面接やって決めていこうって思ってるの。篠見先生には悪い気がしないではないんだけど、どうしても私、自分で自分を教える先生を選んでやってみたいのよ。ねえ、考えようによったら一つの試みとして面白いことだとは思わない」
 「もし、気に入った先生が来なかったら?」
 「そのときはそのときの話よ。でもさっそく、これ三日前出した広告なんだけど、昨日電話があったのよ。K大の工学部の学生だけど。結構やりたい人って一杯いるのよね」
 「でも考えようによっては、結局同じことになってしまうじゃないのか」
 里子はそれにも、まるで一つのゲームを楽しんでいるかのように、「私、これでもいろいろ考えたのよ。少なくとも、今度は、自分で決めた教師なんだからこっちにも責任あるし、間に社長や篠見先生がいない分だけ私の方も、なんて言うか自由にできるんじゃないかって気がして。お金の方は喜代美に紹介してもらった今のパブでなんとかやっていけるし。とにかく今は、あの予備校を離れることが先決じゃないかって考えたのよ」
 「井芹さんは、どうやってこのこと知ったの」
 「彼女も随分苦しんでたみたいでね。ほら、去年の終わりぐらいから、篠見先生が急用とかいって無断でよく休んだことがあったでしょう。そのとき井芹さんも授業に来てたんだけど出席者にはなんの連絡もなくて、さんざん待たされた挙げく、結局篠見先生が受け持っていた授業の代わりに何か他のことしようとする気配さえなくて、それどころか社長も後で補習して必ず埋め合わせするからって言っといたくせにその場凌ぎで、せっかく授業に出て来たのに。彼女にしてみたらこんなものかなって、なんか全部嫌になっちゃってたんだって。その時私も偶然来ててね。一緒にコーヒー飲みに行ったのよ。そこで、私来年からこの予備校辞めて自分で先生雇ってやるみるつもりなんだってことを話したの。そっちの方が断然安くつくし、面白いじゃない。この予備校もほとんど設備に投資してないみたいだし、来たって生徒はお互い傷を癒し合って満足してればいいって子ばっかりでしょう。変わりばえしない陰気で暗い部屋が待っているだけよ。第一、先生に対する待遇だって相当悪いらしいわよ。田中さんて女の事務員の人ね、聞いたら結構お喋りで色々話してくれるんだけど、篠見先生なんて、一応職員になってる関係上月給制になってるけど、非常勤講師の額で計算したら今より三倍ぐらいのお金かかる授業受けもってるんだってよ。まったく社長なに考えてるのかしら。それに篠見先生も、最近生徒から無心して、平気でお金借りてるようだし、授業だって、何かしらないけど終わりの方じゃよく休むようになってたんでしょう」

『ダスト・イマージュ』/その六

 里子にそう言われてみれば、ぼくにしても篠見の前学期の後半に見せた行動は、少々合点のいかないことが多かった。
 事実、篠見はぼくにも金を借りにきていたのだ。額は五千円で、さして大した額ではなかったが、他の生徒には言わないでくれ、馬鹿にされるからと、使う目的も明らかにせずあれこれ予備校のことを日頃の篠見からは想像もつかない恨みめいたことを込め、山田喜代美や久本とかとは、付き合わない方がいい、うちの生徒はいろんな問題起こすから大変だ、あいつらはやめとけと憑かれたようにしばらく話し込んで帰って行ったのだ。そのことも、そのときのぼくにすれば、金を無事借りられたことからの安堵感がそう言わせているのだろう程度に考えていたのだが、どうも振り返ってみれば、そうではないらしい。篠見の表情は、確かに疲労の色がうっすら見えていたし、噂に聞くと結婚に備え、今居る四畳半の下宿を引っ越し、コーポに変えることも性急にせねばならぬこととして差し迫っていたふうなのだ。
 「でも、そう考えていったら社長が一番わるいんじゃなのか。篠見先生にちゃんとやるべきものをやらないから」
 ぼくにそう訊かれ、
 「まあ、そうなんだろうけど」
里子もさすがに困った顔になった。ぼくは、しかし、ここで佐伯からたまたま聞いていたもう一つの話のことも里子には黙っていた。それは、篠見が既にかなり多額の借金を社長に肩代わりしてもらっているということだった。しかもその借金の肩入れは、今の予備校を二年前つくるその時点で、どうやら篠見を雇い入れる条件としてあったらしい。篠見自身、大学を中退しており、自分での塾経営などにも失敗し、デパートでアルバイトをしながらその返済に苦心していたとき、たまたま友人の紹介から今の社長が大検専門の予備校経営に乗り出すことを聞きつけ、それまで貿易関係の仕事をやっていた関係上、塾分野に関しては素人の社長の相談にのったらしい。そのときはどんな内容のことが話され、取り決められたのかは分からないが、恐らくはそう少なくはない借金を社長が取り敢えず肩代わりするかわりに、篠見にはかなり過密なスケジュールのコマ数をこなしてもらい、月々の賃金からきっちりと支払ってもらうということが行われていったのだろうし、それぐらいが大体の相場だろう。実際、篠見の給料からは、決して少なくない額が、毎月、会社名義で天引きされていたというのだ。
 「とにかく、私は辞める。もし京子が少しでも引っ掛かることがあるんだったら無理しなくったっていいのよ。彼女にもそのことはちゃんと言ってあるんだから」
 里子のやろうとしていることをぼくはできるだけ認め、受け留めることに努めることが今であればできるような気がしていた。それがたとえ嫌にならない範囲を僅かに越えたとしても、今のぼくにとっては、さほど差し障りとしては感じとれないものがあったらしい。外から見れば里子のやろうとしてることは、ある意味で下らないことだろうし無駄なことでないわけではないのだが、そのまま笑ってしまえるほど促えどころのないものとも思われなかった。里子にとって、これは、これまでとは違った変化かもしれないし、それは少しづつ契機を持ち徐々にではあるが里子自身の意志をそこに挾み込み今の結論に至ったのに違いないだろう。二人が大検予備校で知り合って早いもので四か月目になろうとしている。変化は、ぼく自身にもきっとあるに違いない。
 面接は、比較的地理的にだれでも知っている喫茶店を、相手に前もって電話連絡しておき、行う手筈になっているのだと、里子の家を出るときぼくは彼女から聞かされた。
 それからしばらくして、ぼくが、里子と会わなくなったのは特別理由があったわけではない。その後里子自身どういうふうに暮らしていたのか、例の家庭教師の件がうまくいったのかさえ、ぼく自身あまり気にしていなかったし、彼女の家に行って話を詳しく聞いたこともなかった。
 そんなある晩遅く、ぼくのアパートに里子から電話があった。受話器を取るといつもの彼女自身の声ではあるがその中にも、いかにも久し振りに掛けてきているように少し奥まった響きの沈まりが底を流れていた。
 「もしもし、亮一君」
 その声に、ぼくは記憶というにはまだ新しい、咄嗟ではあるが、ある種の肉親に近いような忌むような拒否感を覚え、それを慌てて抑え込む形をとりながら反射的に揺さぶられた感覚で呼び戻された言葉を使って答えていた。「なんだ、里子か。今どこからだ、家からか?」里子は、それにはすぐには答えず黙っていた。その反応に、ぼくは、どうも奇妙な、未だ知らない相手の最近の生活の一部が予感され、次にどんな言葉を発すべきかをためらわせた。
 「家庭教師の件、うまくいってるのか」
 それに返ってきたのは甲高い嗤い声と、すぐに低まったうまく滞らせるにも滞らせきれない、底の隙間から噴出するしかない息と、それにとりまざった物狂わしく揺らぎ押さえ付けてくる圧迫だった。
 「はっはっはは……、へえ、心配なんだ、私のことが……。あたりまえでしょう。うまくいってるに決まってるじゃない」
 「どうしたんだ? 変だぞ、いつもと」
 「変は、お互いさまでしょうに。バーカ」
 ガチャンという音が鳴ると同時に、ツーツーという断続的な発信音が受話器の向うから聞こえだしたとき、一瞬、その向こう側にあった里子の像が動き、ぼく自身の目の前で裂けたように思えた。視界が消え、またすぐに戻り、今度はさっきまでと違い紫がかった色になった。今すぐに里子の家に行くべきかどうか、ぼくは、戸惑った。外にでると空気が思っていた以上に冷え込んでいた。ぼくは、アパートのすぐ前の道から左へ入ったわりと大きな通りへ出てタクシーを拾うと、里子の家のある町名と目印になるガソリンスタンドの位置を運転手に告げた。運転手は、ああ、例の轢き逃げがあったところねと、最近の事故と結び付けて頭の中に置いているのか、その町へ向かう途中にあるやや勾配の急な見通しのわるいカーブの話をした後、ぼくが黙っていることに遠慮するふうになり、それからはそのカーブに差し掛かったときも、目的地に着くまで一言も喋らなかった。
 里子の家は静まり返っていた。開き戸を二度ほど大きく叩くとさすがに深夜であるだけに辺りに響き渡り、ぼくにとってもあまり良い気はしなかった。三度目を叩き、里子の名を呼ぼうとしたとき、玄関口に向かって人が歩み寄ってくる気配がし、明りが灯され、三和土に降り立ち突っ掛けの擦る音と一緒に、ガラスで仕切られた戸の向こう側に人気が立った。
 「俺だよ。亮一だよ」
 その声に、相手は押し黙ったまま、機械的に鍵を開けた。

『ダスト・イマージュ』/その七

 「さっきは、ごめんなさい」
 声は、既にいつもと変わらぬものに治まっているようだった。ただ、髪が乱れたふうに無造作に縦に流され、顔色が明りのせいか艶立ったものが感じ取れず、今まで寝てたにしろ起きてたにしろ、躰の調子自体けっしてよくないことが見てとれた。
 「最近、ちゃんと寝てるのか」
 里子は、それにも情けなさそうに首を横に振った。それ以上はそこではなにも喋ろうとしない相手に従われ、廊下を渡りぼくは、里子の部屋に連れていかれた。ウイスキーの瓶とグラスがその位置をそれ自身そこでいいのかどうか分かり兼ねているように、危なげにテーブルの上と下とのわりと毛羽だった絨毯の上に別々に置いて在った。「亮一君も飲むでしょう」里子は、台所からグラスをもう一つもってくるとそれに半分ほど注いだ。琥珀の液は氷が入るとそれとの境目に気流のような淡い層をつくり、滑らかに溶け入っていた。
 「さっきあんまり様子がおかしかったもんで。何があったのか、よかったら話きかせてくれないか」
 「お母さんの居所がわかったのよ。お母さん、今北陸にいるんだって」
 里子の母親は、父親が死んだ後、病院で付き添い婦をしばらくしていたのだが、そのとき知り合った病院の看護士と逃げ、これまで行方をくらましていたのだ。相手は十歳年下だった。ただ、いつも月々のお金だけは最低限申し訳程度に銀行に振り込まれてはいた。妹は、里子にとっては母方の伯母に当る家に預けられており、里子が、母親と妹がいなくなって一人でこの家に暮らし始め、この家を守る形となって頂度半年目になろうとしていたのだった。
 「お母さん、ほんとうに勝手よ。若い男とやりたいことやって。私や妹がどれだけ苦労しているのか知らないんだわ」
 ぼくが黙っていると、そうせずにはいられないとばかりに吐き捨てるように、「でもあんな人、生きていようが死んでいようが、私の知ったことじゃないけどね。私、男と逃げたときからそう決めてたの。あの人は私にとって、もう親でもなんでもない、ただの赤の他人だって。お金だけ今の額でもいいからきっちり送ってくれたらそれでいいのよ。そう考えようって、私思ってたの……。でも、それ正解だったわよね。だって実の娘がいるっていうのに、居場所をこっちにに直接知らせないで、伯母さんの方に知らせるんだから」
 「家庭教師の方はうまくいってるのか」
 ぼくは、そう意識していたわけではなかったがそこから話の内容を結果的にズラす対し方になりながら訊ねた。
 「京子にとっちゃ、楽しくてしょうがないんじゃない」それには、あっけらかんとした答えが返ってきた。例の新聞の広告でやってきた学生と井芹京子が、教える側と教えられる側を離れ、今は付き合ってるというのだった。お互い、たまたま出身地が同じ県だったことから意気投合し、楽しくやっていると言う。だが、里子が話した京子についてのことはそれだけではなかった。

『ダスト・イマージュ』/その八

 「あの子、見かけよりけっこう変わってて、神経質なのよね。それに考えようによっちゃ、とんでもない子かも知れない。私、最近、また体調おかしくなってきていて、自分で自分の頭の中が苛々して、眠れなくってどうしようもなかったもんだから、病院行き始めてたの。精神科の病院なんだけど。そのこと誰にも言ってなかったのよ。そしたら、ある日、勉強終わってから、彼女がしきりに聞くのよ。福島さんは病院行ってるでしょう。私知ってます。どこの病院ですかって。どうやら、彼女は私が外出するとき一度だけ後を付けてきてたみたいなのよ。私は、そんな気配がしてどうしても気になって仕様がない日が一日だけあったの。でも、だからって、こっちもそれで直ぐにその事を問い詰めたりはしなかったし、そんな勇気もなくて、深く探ろうともしなかったけど、なんとなくそのときピンときたのよ。だって彼女、最近、福島さんの顔を見ると、よく眠れているようで羨ましいって、私の眼元をじろじろ見ながら何度も言ってたのよ。それでも付き合ってれば、自然となんとなく伝わってきたんだけどね。そもそも彼女自身、私と同じような症状があるらしいってことがはっきりしてきたの。それで、しきりに私の行ってる病院のことが気になってたみたい。だけどやっぱりどう考えても不思議よね。私、病院に行ってること、ほんと誰にも教えなかったし、あの子にだって一度も喋ったことないし、絶対ばれるはずないんだから。でも、同じ症状持ってるあの子には、それがなんとなくわかったのよね。それで、私もう隠す必要ないだろうって思って観念して白状したら、早いもんでもう彼女、私と同じその病院に診てもらってる最中だったのよ」
 そこまで、話したときだった。さっきここへ来る前に聞いた電話の向こう側の引き攣った感のある声の延長のように、突然、里子の表情が険しさを増し、顔色がにわかに変わった。そして、その事実も、その時のぼくにとっては当然という気がしないではなくなった。言葉がとぎれると同時に、里子は蒼ざめ咳き込み出し、それが次第に激しく強くなっていったのだ。ぼくは、すぐに気を配ろうという素振りは見せず、相手の苦しげな背中に手を掛けることもなく、その姿を眺めていた。
 里子は、アルコールに酔いながらも、こんなことのために用意しているのか、壁に寄せていたバックを慌てて手元に引き寄せ、その中から白い粒状の薬を取り出すと台所へ急いだ。その薬が、どれだけの効果があるのか、ぼくにはわからなかったが、疑わしいもののようにも思えないこともなかった。ただ、それでまもなく里子の抱えた発作が治まるにしろ、彼女がますます何者かに追い込まれ息苦しい呼吸を荒々しく繰り返すにしろ、どちらにしてもその一部始終だけは見とどけておこうという心理が、沈黙しながら固唾を飲みその処置と結果を待ち受けるぼくの胸の中に走った。しばらくして、幾分落ち着いたと見え、手の甲で口元を拭いながら里子が台所から戻ってきた。
 「ごめん、おどろういたでしょう。亮一君、発作見るの初めてだった?」
 「薬飲むと、やっぱりちがうのか」
 ぼくは、肘を立て少し躰を起こし加減にして訊ねた。かなり以前は、神経的に麻痺したようにその効き目も強力なところがあったが、少しづつそれにも慣れ、それでも中毒にならないよう医者から飲む回数は発作が起こりそれを抑えるのに止むを得ないときだけと言われている。里子は、簡単にそう答えただけで、微かに頬笑み黙っていた。

『ダスト・イマージュ』/その九

 「あの子、見かけよりけっこう変わってて、神経質なのよね。それに考えようによっちゃ、とんでもない子かも知れない。私、最近、また体調おかしくなってきていて、自分で自分の頭の中が苛々して、眠れなくってどうしようもなかったもんだから、病院行き始めてたの。精神科の病院なんだけど。そのこと誰にも言ってなかったのよ。そしたら、ある日、勉強終わってから、彼女がしきりに聞くのよ。福島さんは病院行ってるでしょう。私知ってます。どこの病院ですかって。どうやら、彼女は私が外出するとき一度だけ後を付けてきてたみたいなのよ。私は、そんな気配がしてどうしても気になって仕様がない日が一日だけあったの。でも、だからって、こっちもそれで直ぐにその事を問い詰めたりはしなかったし、そんな勇気もなくて、深く探ろうともしなかったけど、なんとなくそのときピンときたのよ。だって彼女、最近、福島さんの顔を見ると、よく眠れているようで羨ましいって、私の眼元をじろじろ見ながら何度も言ってたのよ。それでも付き合ってれば、自然となんとなく伝わってきたんだけどね。そもそも彼女自身、私と同じような症状があるらしいってことがはっきりしてきたの。それで、しきりに私の行ってる病院のことが気になってたみたい。だけどやっぱりどう考えても不思議よね。私、病院に行ってること、ほんと誰にも教えなかったし、あの子にだって一度も喋ったことないし、絶対ばれるはずないんだから。でも、同じ症状持ってるあの子には、それがなんとなくわかったのよね。それで、私もう隠す必要ないだろうって思って観念して白状したら、早いもんでもう彼女、私と同じその病院に診てもらってる最中だったのよ」
 そこまで、話したときだった。さっきここへ来る前に聞いた電話の向こう側の引き攣った感のある声の延長のように、突然、里子の表情が険しさを増し、顔色がにわかに変わった。そして、その事実も、その時のぼくにとっては当然という気がしないではなくなった。言葉がとぎれると同時に、里子は蒼ざめ咳き込み出し、それが次第に激しく強くなっていったのだ。ぼくは、すぐに気を配ろうという素振りは見せず、相手の苦しげな背中に手を掛けることもなく、その姿を眺めていた。
 里子は、アルコールに酔いながらも、こんなことのために用意しているのか、壁に寄せていたバックを慌てて手元に引き寄せ、その中から白い粒状の薬を取り出すと台所へ急いだ。その薬が、どれだけの効果があるのか、ぼくにはわからなかったが、疑わしいもののようにも思えないこともなかった。ただ、それでまもなく里子の抱えた発作が治まるにしろ、彼女がますます何者かに追い込まれ息苦しい呼吸を荒々しく繰り返すにしろ、どちらにしてもその一部始終だけは見とどけておこうという心理が、沈黙しながら固唾を飲みその処置と結果を待ち受けるぼくの胸の中に走った。しばらくして、幾分落ち着いたと見え、手の甲で口元を拭いながら里子が台所から戻ってきた。
 「ごめん、おどろういたでしょう。亮一君、発作見るの初めてだった?」
 「薬飲むと、やっぱりちがうのか」
 ぼくは、肘を立て少し躰を起こし加減にして訊ねた。かなり以前は、神経的に麻痺したようにその効き目も強力なところがあったが、少しづつそれにも慣れ、それでも中毒にならないよう医者から飲む回数は発作が起こりそれを抑えるのに止むを得ないときだけと言われている。里子は、簡単にそう答えただけで、微かに頬笑み黙っていた。

『ダスト・イマージュ』/その十

 新学期が始まり、それまで、前学期の終わりから尾を引くように飛び飛びながらも姿を現していた篠見が、二月半ばになってぱたりと来なくなって二週間たった。 社長は、その理由についてはっきりとした理由を生徒たちにも、また他の講師たちにも説明せず、またそれを求める者もいなかった。篠見のいなくなった穴はすぐに埋められるものではない。彼の噛み砕いたわかりやすい授業は、生徒たちからも定評があったし、その受け持っていたコマ数は並のものではなかったからだ。大田や佐伯といった授業には出なくとも、篠見と半ば話すためにやってきていた生徒たちも、初めのうちこそ篠見の引っ越したばかりのコーポへ遊びに行き連絡を取り合っている様子だったが、そのうちまた、事件が進展しそれも出来ないことになってしまった。
 篠見が行方をくらましてしまったのだ。家賃が一月分滞納されており、篠見の失踪の後、紙面上保証人になっていた社長がそれは支払い、その部屋を現在では社長が倉庫代わりに使っているということだった。篠見が、行方不明になったのには、もちろん彼自身の結婚問題が坐礁に乗り上げたことも大きな理由として上げられたであろうが、それ以上に生徒からの悩みごとの相談役としてカウンセリング的な役割を無制限に引き受け、自分からもそこに歯止めを打つこともせず浸り込み、生徒自身、それに当然適ったやり方で係わりを進め対峙していったことである循環が起こり、篠見の内側を一つ一つ個別な事情が息苦しく、生徒の声となり取り巻いていったということだった。それが次第に彼を追い詰めて居場所をなくさせていったことが事の真相のような気もする。その中には、いくつかの男女の生徒間の問題もあったようだが、各自の中に浮き上がってきた、そこはかとない意気地なものをそのまま篠見に投げ出す形をあの部屋で延々と繰り返していたことに端を発する今回の出来事は、篠見を慕っていた幾人かの生徒にとってはそれなりに不可解で納得しにくいものがあったに違いない。篠見が姿を見せなくなってから彼のコーポへ押し掛けたことが、結果的には、篠見をさらに外に追い出すに充分、早めることになってしまったのだ。 
 真ん中の部屋からも、それまでとられていた篠見を中心としたやりとりはすっかり消え、大田や佐伯といった授業には出ないながらも、その部屋に毎日のように顔を出し、何するでもなくやってきていた常連の生徒が座を寄せ合い集まりながら、篠見や自分たちを含めた予備校のこれからの事を憶測を飛び交わせながら噂し合う場面が多くなった。だが、それもけっして真剣にというわけではなく、ややもすると、ある身近なドラマの筋を自分たちなりに練り出し要所要所は気楽に楽しんでいるふうでもあった。
 「篠見先生のことだから、やあ、すまんすまんって平気な顔でかえってくるんじゃないのかな」
 大田が言うと、新年になってから珍しくそこにやって来ていた久本が、
 「やっぱり、先生いなくなったの本当だったんだな。佐伯、お前正直、先生の居所知らないのか」
 佐伯は、当然そんなことは知らないという惚けた顔をする。ぼくが、予備校にやって来たのは、そんなときだった。
 「亮一、福島さん予備校ぜんぜん来なくなったけど最近どうしてるんだ」
 里子が予備校を辞めたことも家庭教師のことも、全く知らない久本が訊ねると  「彼女、どうも最近体調悪いみたいなんだ」
 ぼくは、当たり障りのない返事をした。事実、三日前、里子から電話で、内臓とくに肝臓の具合が前と同じように思わしくなく、しばらく検査をかねて再入院するつもりでいることを聞かされていた。ベッドの空きがなかなかなく、それでもいつも見てもらっている係り付けの医者から、精密検査をするため念のため急いだほうがよいと注告を受け、ベッドが空き次第、二、三週間入院することが決まっているようだった。
 「そう言えば、昨日井芹さん、ここに来て変なこと言ってたな」
 それから佐伯が、どちらかと言うとぼくの方を主として見ながら話したことは、奇妙なことだった。
 京子が、自分の下宿の傍を歩いているとどうも、誰かにつけられている気がすると言うのだ。しかし、すぐに振り返って見てみてもそこにはだれもいなく、どうやらそれは、意図として京子を最後まで追い詰めてやろうとしているのではなく、彼女自身が、それに対し一体どういう反応を示すのかをじっくり見ているふうだというのだ。薄気味悪くて仕様がない。たぶん気のせいだろうが、最近、それが気になって眠れなくなってきていると。 
「井芹さんも変わったな。最初ここにきたときはおとなしそうにしてたのに」
 佐伯に吊られるように大田も
「大学生と付き合ってるみたいだぜ。どこで知り合ったのかしらないけど」
 京子の後を付けられてた話といい、里子の病院まで尾行され、そこを突き止められた話といい、似ていると言えば内容は、まったくの瓜二つのものだった。
 ぼくは、その両者ともが、今の時点では疑う根拠が何一つない空恐ろしい話のように思えるのだった。同じ神経を病んだもの同志が、同じような圧迫を感じながらも同時に似たような行為に出、相手をじりじりと苦しめる。それぞれが、そのことをあらためて異を立てれるほど見切っていないだけに、傍から観察していると実に自然な、異常行動というものとは明らかに一線を画した素朴な動きそのものにうつる気もする。だが、反対にややもすると、これほどの執着めいた陰湿なものはなく、一つ大きくズレ落ちた断層を傷のように深くその行為の奥深くに持っている、そんなふにも思えてくる。
 亮一は、そこに集まった他の生徒の顔をあらためて見回しながらそんなことを考え、一人思いに耽りながら、たわいのないことだと切り捨てられぬ引き摺る何かがそこにあることを感じ、忍び寄る緊張のようなものを禁じえなかった。

『ダスト・イマージュ』/その十一

それから一月ほどして予備校からの帰り、ぼくは久し振りに街に出掛けてみようかと思い、市電の駅へ向かった。自分の乗る車線のホームの反対側の交差点で風が強く吹き上がり、そこで少し立ち止まった。そのとき、これから行こうとする方角に一人の影が立っていて思わずその姿に見覚えがあり、ぼくは、すぐにまた歩を止め、くるりと向きを変えた。すばやくこちら側に建っているビルの下の一本の支柱の陰に身を隠した。血の流れが激しくなり血管を信じられぬ速度でその固まりは過ぎていった。その影は、ゆっくりと脚を絡め交差とともに躰をいくぶん前方に傾け確かに背中で何かを感じ取り待ち構えているようだった。
 里子だった。
 いつ病院から出てきたのだろう。ぼくは、おそらく向こうからは見えないであろうその場所で、風を避けてか、同じように身を寄せ合うようにして立っている次の市電の乗客たちに紛れ、それでも彼女のいる方角が気になり、ときおり糸でそちらに引かれるように視線を向けた。彼女は相変わらず手持ち無沙汰のふうで、やや神経過敏そうに時計を覗き込んでいる。おそらく今度来る電車に乗るつもりらしいことは確かだった。ぼくも、しばらくは平静に、彼女のいる方をできるだけ見ない姿勢で臨もうとしながら、斜めから断片的に過ぎては視界に入ってくる車の影と多少焦点を失った感が強い里子の動作が気にかかり、悪い予感にも裏打ちされ後ろ手を引かれる思いで見守ったのだ。
 そのとき、ぼくは、里子の家に夜中タクシーで行ったあの晩のことを思い出していた。 
「ときどき……」
 そのとき里子は亮一の顔を見ず、今ホームにいる彼女と似たような姿勢をとりながら、薬を飲んだ後しばらくしてから以前突っ伏したまま腕を肩から下ろし、生き物が踞み込み、息をつぐ恰好で言ったのだった。
 「……また考えこんでしまう、一人でいると。悪い方、悪い方へと考えが先回りしてしまうの……」
 里子が、そのとき着ていた黒のワンピースを、ぼくはそれまで目にしたことがなく、このときまたそれが鮮明に浮かび上がってきた。大きく開かれた首元の辺りから覗ける肉付きから判断しても、今思い返しても、彼女が少し太り始めていたことが容易に見て取れた。肝臓の疾患から来る浮腫みが露わになりだしているのは確かだった。
 「ねえ、こんな夢見たことない? このまま、自分の回りには誰もいなくなって、お父さん死んだときみたいに、また、たった一人になってしまうの。建物とか全部壊れてしまって、砂漠みたいなところに一人取り残されて、食べるものもなくて、歩く力もなくなって、どうすることもできなくなって、だけど目だけがちゃんと動いていて、死なずに回りを見ながら生きているの……」
 ほんの一瞬だった。
そのとき二人が沈黙の中にいたすぐその後、里子の目から生気がぱったりと消え、目の前の宙の一点を放心するように見つめ、やがて馳せ、また俯いた。
 「お父さん……、お父さん……」
 里子はか細い声で吐き出すように、何かに迫られ追いつかれた者のように無気力に咽喉を小さく震わせていた。声だけでなく躰までが小さく震動し大気に敏感に触れ弧を幾重かに描き揺れているようだった。そして、里子はつづけた。
 「亮一君、あなた、夕暮れは耐えれる? 夕暮れは、死を誘うのよ。夕暮れの、あの空気と色の褪せていく感じ……。わたしは、毎日毎日、もうどうにも耐え切れない。子どもが遊ぶ声なんかが裏からしてきて、遠くの方では、犬の泣き交わす声なんかがするの。甲高い声よ。溝を流れる下水の音。木の梢の揺らぐ気配。わたしは、もうどうにも耐えれない。何度死のうと思ったか知れない。でも、死ねなかった……。ねえ、柚木くん、あなた耐えれる? こういう感じって、耐えれる?」
 ぼくは変わらぬ姿勢のまま動かず、里子の変貌していく姿を、今この駅の前の僅かな吹き溜まりのような場所で思い出していた。
湿ったこの地特有の巻き上がる風にひたすら曝されながら立っている道路の向う側の相手を里子だと確かめ、ぼくは今、重ね合わせるように思い出し、やがて同じ車両に乗る自分たちのことも忘れたようにして、目の前の相手の動静を窺っていた。

                                      (了)
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