2007年01月21日

『島』・その一

                島

               解逅

 その島に来て彼は、三つの倉庫を見た。
倉庫はそれぞれ独立した形をとりながら海岸べたに打ち寄せられたものかどうなのか定かでない、今まで彼が見たこともないような奇妙ながらくたを丹念にその周りに並ばせていた。
 倉庫に近づくとそれが、思いの外巨大で頑丈な造りをしていることがわかった。 僅かにがらくたの中に埋没しきっていない鉄骨のような、それまた不可解な石に似たものでつくられた骨組みとその下に隠れているであろう地中にもぐった目に見えぬ部分までがまざまざとかれの眼前に見て取れる気がした。
 彼は、一番手前にある倉庫の庇とも言えぬほどにかなり上方から影を壁に落としているその下に立った。
 その倉庫は、海岸の砂とは明らかに組成を異にし、塗り固められてはいるものの金属片を細かく砕いてまぶしたような凹凸の多少ある滑らかさを表面に持った壁面を抱え、触れるとやや吸い込まれていきそうな感触と、柔弱さを備えていた。彼から見ると実に奇妙ながらくたは、スポンジを丸めたようなものやハッポースチロールのような軟質のものが固まって自然石のように凝結したものまでどれも、ある共通する性格のようなものを持っていた。
 手にすると粉々に砕けていくといった脆さはなかったが、布のような、肌と容易に馴染んできそうなところがあり、それが一度崩壊し再び同じ歯形と連接部をもったものと辛うじて組み合わさり、たまたま今だけ幸運にも強い磁力で結び合っているといった感がした。その共通するものが何なのか、まだこの時点では彼にはわからなかった。
 倉庫に沿ってときどき掌で壁に触れ歩きながら、彼は、出入口を探してみたがどこにもそれらしきものは見当たらなかった。外回りをがらくたに足をとられないよう注意し歩くだけで三十分そこそこ必要で、それでも壁の中には切れ目一つ見つけ出すことはできなかった。
 するとこれは倉庫ではなく、何か別の目的のためつくられた建造物なのかもしれなかった。
 そんな確信を揺るがす不安のようなものが彼にこのときよぎったが、この目の前にある物体がこの島の謎の中心を握っているであろうという彼の勘にたいした影響は生まれず、それどころか増々その核心に近づくことで起こる静かな心の底のうねりは深まっていった。
 彼がこの島に来た目的は次のことだった。
 この島がゆっくりとではあるが確実に海面に沿って傾斜し沈みつつあることは既に数年前から継続的に行われていた地質調査で明らかだった。そのことをさっそく、とるべき経路を通し、この島に住むそう多くはない島民たちに知らせてもいた。
 島民たちの大半はその話の内容に多少耳をかすことこそすれ動じることはなく、相も変わらず当時から日頃の生活を繰り返していた。それどころか最近では、実際に数値的には沈下しているにも拘らず、この島がここ一年ほどに隆起を取り戻していることが近年開発された高度な測量機械と航空写真の分析機によって実証されたのだった。それも海抜下での変化は以前同じ微少なマイナスを記録しているのに、あたかも島全体が中心部から周辺にかけ膨らんで行き土塊だけが地表へ突き出し沈下に見合った分だけの体積分が増加されたとでも言うように、この半年ほど小まめに収集されたデーターがその値を解明し答えを出して来ているのだった。
 ところが、調査にあたった者たちはそれを一時的な変化としか見ず、さして重要視することもなく次の依頼先へとうつっていた。 
 彼もその中の一人だったのだが、あの航空写真数枚とコンピューターのディスプレイに写し取られた地表の変動のみ染色されたグラフィックを思い出すにつけ、彼にとってその変化の特長がどうしても気になりだし、いてもたっても頭から離れなくなった。同時に妙に落ち着きだった島民の様子さえ記憶の中で膨れるように蠢いて、島のことがいつのまにか成し崩しにできないものとして残っていった。
 彼は、研究所に三日の休暇を願いで、自分なりに納得のいく結論を出そうと、もう一度この島にやってきたのだ。

『島』・そのニ

 傾斜の中でもかなり深めのところを彼が選択し落込んでいったとたん、がらくたの幾つかがかすかに動き出し、黒っぽく穏やかな生き物の気配が走った。
 人間だった。
 相手は浮かぬ顔をしながら、その足元を白いものに覆われた側から道のくっきりと浮き出た彼のいる側へ入り込ませ、彼の立つ同じ場所へと近づけてきた。彼は首を軽く動かし微笑をおくり挨拶した。その返事として、相手が彼自身のことを和やかな気持ちを持って迎え、言葉を返すことは期待はできなかった。その浅黒い、おそらくさっきまで畑仕事をしていたことが体の至る所から滲み出している頑強でいながら静けさをも兼ね備えたその男の顔を彼は、確かに見て知っているというわけではなかったのだが、この島を数年前調査に訪れたときから島民のすべてに共通するあるものを、底に形をなくした泡末のように肌に染ませ持っている気がしたのである。しばらく沈黙がつづいた後、今いる場所がいかにも自らの生活の場らしく、義務的な感を残しながら尚、形として訊ねたのは男の方だった。
 「どこかでお会いしましたかい」
 それは、頂度自分にとってここが、毎度いつも通る仕事からの帰り道というような彼への落ち着き払った対峙であり、その態度にそのまま見合った言いぶりだった。
 「ぼくは地質の調査にやってきた者なんだが」
 その一言を聞いた後も、男は訝しむ顔つき一つせず無表情だったため、彼はやむなく相手の気持ちをはかりかね、更にもう一度同じことを繰り返さねばならなかった。
 「地質だよ。この島の地面のつくりと最近の変化の仕方をしらべているんだ。以前にも一度……」
 「へええ、チシツ……」
 男は、数年前のことはすっかりわすれてしまったとでもいうのか、それともまったくその当時も今もそんなことは気にもしていないし、どうあってもいいというのか少しも動じているふうではなかった。
 「確か三年前、この島が沈みだしてきていたことは、耳にしたことがあるんじゃないかと思うんだが」
 彼もこうなればやや大柄に相手を刺激し、出方を窺うふうに切り出した。
 「しかし、ありゃあ、今すぐということじゃなかったんでしょ」
 予想外な男の直接的な返答に、反対に彼の方が出鼻を挫かれた。
 「あのときゃ、そりゃ少しは心配しましたが、今じゃこの島のだれだってわすれていますさ」
 歯に衣着せずたじろぐことはなかった。彼は、ふとそのとき何を思ったのか、機先を転すかのように斜めに目をやり、がらくたの方を指差した。
 「あれは?」
 「最近、どんどん増えてきてましてね」
 男の頬の筋肉がそのとき緩み、それが取りようによってはニヤリと笑ったように思えた。 
 「前きたときは、まったくなかったんじゃ」
 彼の声も強まった。
 「この島の何人かの者は、白蝶って呼んでますよ。夜、これを見ると、そりゃあ羽を広げた白い蝶が、羽化してまもない頃のようにやわらかい産毛をさげて飛ぶように見えるんでさ」男は、少々息が速まってきているように話を先に進め、知らないうちにそうなるんだというようにやがてその息を殺し、詰めた。
 「シ・ロ・チョウ」
 彼は、膝を折り曲げ踞みその言葉を口元で反芻し、白蝶を片手に取り掌で転がした。そして、指先にひろったそれらに少しばかり力を込め粉に砕いて撫ぜた。その感触は、相変わらずざらざらしたものでなく、かといって滑らかさばかりでもない、中途半端に圧力をかけすぎた何層かの組織のようにそのとき彼には思われた。つまり彼には、これが、空を飛ぶ蝶に見える代物とは、到底思われなかった。だが、相手のこのがらくたへとそそぐ眼差しは、何かその中に魂の存在でも見てとるような、そんな熱い視線だった。彼は、さっきから相手が会ったときと同じつっ立った恰好でややこちらを見下ろしているふうだったため、しかたなく、そんな自分の気持ちを外に表さないように、ゆっくりと立ち上がった。

『島』・その三

               謎


 男に案内されるままに、彼は島の中心寄りにあるという、この島の最近の様子を聞くには最も適人であろう、タケダという男のところへと向かった。
 タケダの存在をこのとき彼は、初めてこの男から聞いて知ったのだが、それもそのはずでタケダは三年前にはこの島にはいず、ちょうど彼たちが調査にやってきていたそのすぐ後に入れ代わるように島にやってきて住み着き、島の海岸沿いや畑のあたりをぶらつきながら小魚や季節折々の作物をいくらか安くしてもらい、自ら、空き家になった漁師の家を手に入れ島のどちらかと言えば中心に近い丘ぞいに立て替えたその場所で生活しているというのだった。がらくたは、やがて暮れかかった影のような木立ちに遮られた薄闇の中で、ぼんやりその向うから洩れ出てくる日に照り返っていた。だが、彼には、男が言ったように白くたしかに羽を広げ、今にも飛び立つかのような気配をその白い物体の中にに見つけることはできなかった。
 彼にとっては、やはりそれは、ただのがらくたに過ぎなかったのだ。太陽の位置が充分弧を描きながら海面近くへとなり、反射を強めることもなくその日自身にのまれ不確かなものへと自らその輪郭を変えてきていることだけは、彼にも今、はっきりうなずける事実だった。「あんまり長居は無用ですぜ」タケダの家の前にくると、男は彼に一言言ってもと来た道とは少しずれる角度と思われる竹藪とがらくたとが半々くらいに混ざりあい溶け合ったように位置と距離を保ち合うその中へすっぽり足を踏み入れ、姿を消していった。彼は一人残ったことに多少の違和感を持ったが、その違和感が周りと簡単に同調しようとしてもあまりできない自分自身知っている彼の性格からやって来ていることに薄々感づいていた。彼が何度か、目の前の戸を拳で叩いたとき、古びた材木と板で外に向かって少し反り返ったその扉は心なげに僅かばかり軋んだようだったが、すぐにその向こうからゆっくりとした足音が伝わってき、やがて目の前を隔てていたものが頼りない音を低く鳴らせ開いた。彼の足が入り込むぐらいの隙間の向こうに人影が見え、暗く沈みかかった家の中に残った光がつくりだすわずか数秒かの幻影のように、それはじっとして動かなかった。
 「だれだね」
 思ったより丁寧な応答に彼は、幾分緊張がとけ、この島にきてから終始無意識裡に一貫していた硬い表情をこのとき初めて弛めたように解いた。相手に自分の心意が伝われば、かなり良い結果がえられるのではないかという彼の考えがこの時、なんの前触れもなく湧上がってきた。
 「ちょっとお話が」
 彼は大胆に、ここに着く最初からそう決めていたように思いきりを出して、扉の隙間越しではあったが多少高揚に、それでも相手に悪い感情はあまり持たせないよう表情は抑えぎみで、冷静さを型どり訊ねた。
 「この島のことなんです。この島の……、」
 言いかけたとき、反応は向こうから返ってきた。扉は大きく内に開かれ、おそらく足を差し入れてもいいのであろう、その合図として招き入れられる形となった。彼はゆっくり体を移動させながら、同時に後ろ手で扉を閉めきり辺りを窺う姿勢をとった。外見はそうだったが、心情的には警戒心がそこに強く出ることはなく、初めて入る他人の家であっても彼にとっては、多少の緊張はあるにせよ、ごく普通の段取りにこなせられたことが不思議なくらいだった。
 タケダの表情は、暮れかかった外気とその闇につつまれかかった部屋全体の静けさと、その静けさが、やがては体のまわりに降り下ってくる重さと入り混ざったようで、それでいて、それらのおとずれと較べたとき、いくらか明るいものを持っていた。ただそれは、あくまで彼から見たときの場合で、あのがらくたを、生きたシロチョウなどと見るこの島の島民から眺められればタケダの目の前に佇む僅かに陰りを持つ顔がどううつるかは疑問だった。いや、もしかすると、島民たちは彼以上にこのタケダに深い思いを抱いているのかもしれない。島の外からやってきたよそ者であり、いつのまにか住み着いてしまったこの男を、この島の住民は羨望とどこか蔑視するような眼差しで見つめ、おそれのような気持ちをどこかにひそませ見ているとは言えないだろうか。きっとそれは、タケダにとり、自分にふりかかってくる随分余計なものであるに違いない。彼はそんなつまらないことを密かに、今、貴重な時間を費やしながら考えていた。彼は、簡単な自己紹介をし、そんなタケダの方に視線を向けた。
 「この島について、あなたがお書きになっている日記をぜひ読んでみたいと思いましてね」
 「ほお……」
 今度は、今までの態度から予想していたのとは逆に気のない返事が返ってきた。 「私の日記がそんなに役に立つのかな……」
 彼は、頷こうと思ったがすぐにその行為を考え直した。しばらくしてから、タケダが反対に訊ねた。
 「ところで、わたしがこの島の生活を日記に書いているなんて、誰から聞いたんだ」
 彼は、がらくたの中で出会った男の話をし、この小屋へやってくるまでの事の成り行きを話した。タケダは小屋の中にたった一つだけある窓とは言えぬような小さな採光口の前にその一部始終を聞きながら体を移した。既にそこには昼の光は散らばっておらず、闇の中にあいにくの曇り空か照らすものもなく、ただ空気が触れれば低い音を鳴らし落ちていく、そんな澱みに似た静けさを垂れ込ませているだけだった。タケダは、ゆっくりと彼の方を向き直した。
 「この島の者はわたしのやっていることは何でもお見通しのようだ」
 それから苦り切った顔で 「やはり、私をまだ『島民』とは思っていないんだな」と言った。
 彼は、暗闇の中に一筋浮かび上がったタケダの顔をその声といっしょに思い浮かべ、また目の前の像と結び合わせた。タケダの方もそんな彼のことを察してか、最近漁師からもらったというカンテラに灯をつけた。小さな明りが放射線状に伸び、辺りを小屋の広さからすると余分過ぎるほどに照らした。彼が動かず、ただそのままじっと背中を壁に凭れる格好でいると、それまで響いてこなかった鼓膜に何かの揺れが少しづつ微弱な音から徐々に大きさを広げながら伝わってきた。タケダと彼は、その正体が何なのか確かめるふうに、手も足も首もどこか反応を待つ受容器になったように先端を穿ったような構えた姿勢で待った。
 だが、タケダの方は、それはあくまで外面だけのことで実際のところ大した変化はとらず、それどころか押し殺しているのか謎のような落ち着きをいよいよ深めてきているかに思われた。
 彼自身、実のところ、一回目の、しかも突然のこのような訪問にあまり期待はしていなかったし、また男が言ったように長居しようとも、またその必要もないと考えていた。ただ彼は、タケダと出会い、タケダと自分との距離をお互いの記憶に残る程度に意識にとどめたかったし、それが何らかの形で次にやりとりを行うときの組みしやすさをもたらすと考えてもいた。そしてタケダの方も、彼が思ってもみなかった方向に言葉を紡ぎだすことはせず、あまりその後は口を開くことなく暗闇しか目にできない外の宙点をぼんやり見詰める姿勢となった。

『島』・その四

 そんなときだった。
 やがて扉が勢いよく開かれた。
 彼は、頂度今、肩口にあるそちらの方を振り返りながら視線を落とした。小さな塊に似たものが動いたかと思うと、すぐに静止した。よく見ると男の子が一人、そこがいつも自分が落ち着く場所なのか、今まで気づかなかったテーブルらしき平たい木を丸太の上に並べたに過ぎない、そんな簡素な台の隣に拵えられたそれまた簡単な原木をくり抜いただけの木椅子に、たった今来た様子とは反対に静かな格好で機械的に腰かけたのだった。タケダは、しばらく彼と少年を均等に見詰め黙っていたが、やがて彼の方にその中の比重を傾け変化を置く形で言葉を発した。
 「トオルと言って、私の息子だよ」
 意外な出だしのタケダによる少年の紹介だった。すぐに、さっきのがらくたの中の男の顔が浮かび、タケダに子どもがいたことなど一言も聞いていなかったことが彼には早速悔やまれた。外を見ていた姿勢から突然振り返った彼の方に視線を向けていたタケダの口からは、今、彼が思ってもいなかったことがさも自然な口振りで話されたのだった。タケダはつづけた。
 「この子は私のたった一人の息子でね。ごらんになったらわかると思うが緘黙なんだよ。緘黙。つまり一言もしゃべれないし、しゃべらない……」
 彼はゆっくりと少年の顔を見た。少年は静かに座っていた。指先が膝の近くあたりでわずかに虚空をつかむようにもどかしく動いていた。視線はそれでもしっかりある一定の場所を見つづけている。動かず何を見ているのかはわからない。木の木目か何か見ているのだろうか、彼には見当がまったくつかなかった。彼は、少年に話しかけることをやってみた。簡単な挨拶だった。タケダは、黙って彼がするように任せていた。だが、それでも二度、三度彼が少年に同じようなことをしようとしたため、さすがにたまりかねたふうに言葉を切った。
 「無駄だよ。さっきも言っただろう。その子は、カンモク、なんだから」
 勢い込んでいながら、感情的でない言い馴れた重みのようなものがそこにはあった。まるでそれは、それ以上彼に骨を折らせたくないという親切心からやって来ているのだと、いかにも言いたげなふうだった。彼は、黙ってそれに従った。
 「そうそう、君は、この島のことで来たんだったね」
 それからしばらくし、思い出したようにタケダが言った。
 「念のため言っておくが、私の日記は大したことはないよ」
 「それはどんなことでも構いませんから」
 彼も謙虚さを出しながらも、自然縋るような目付きに自分がなっているのではないかと、さっきまでの大胆な態度と多少打って変わってきている自身の姿に驚いた。一体、そんな気持ちにさせるのが何なのか、それもできれば今すっきりさせてみたい気がした。

『島』・その五

 
それからの沈黙は長かった。
 彼はこの小屋をひとまず退出するときが来たことをまもなく知った。
 まだ開け放たれたままの窓からは、わずかに湿気を多くふくんだ風が吹いてきていた。彼は会釈ついでに少年の顔をもう一度見た。何かをしきりに考えているようでいて何も考えていないような一種放心したふうにも似た、瞳の奥の輝きのなさが気になった。
 扉を開け、彼が小屋を出ようとしたそのときだった。タケダは、採光口とは反対の壁際にある、木造りの朽ちかけた棚に手をやり、古びたノートが数冊置いてあるその中から一冊取り出した。
 「ここに、私が息子とこの島にやってきてからの、最初の頃の日記が書いてある。ただし、断片的過ぎて、読む者によっては本当につまらないものばかりだ。もしこれでよければ、君にお貸ししよう」
 彼は、そのノートの重量を掌に感じ取りながら少しばかり喜びが胸の中に巣くったような気になったが、以前露骨に表情としては出さず、冷静な態度で受け取った。
 「しばらく、いや、できるだけ速くお返ししますから」
 御礼の言葉とも弁解ともつかぬ言葉を残すと足速になるのを抑えタケダと少年の棲む家を後にした。 ノートは全体のページ数のわりには、記されている量も少なく、明らかに区切りをつけるためある時期途中から別のノートへ移ったことが見てとれた。そのため物足らない感じがしたのも確かだったが、彼は、いづれ残りの数冊も見せてもらおうと今は出来すぎた今日の運びに喜びを感じこそすれ焦る気持ちはまったくなく、心は落ち着き払っていた。だが、彼にとっては振り返ってみると、考えていた以上のタケダとの対応の収穫にその日は少々浮かれ出したい気分になっていたのも事実だった。彼は、前もって予約していた島の数少ない宿に一夜をとった。
 部屋に入るなり、さっそくスタンドの明りをテーブルに引き寄せ、ノートを開いた。日記は、次のようなものだった。

『島』・その六

○月○日水曜
 私がささやかなこの日記を書くにあたり、その目的を明記しておきたい。
 まず、その一つは、緘黙の息子が、唯一不意に洩らした言葉、それがこの島の名前であったこと。妻の突然の蒸発の後、二人で暮らしてきた八年の歳月の中で一言も発しなかった息子が、ただ一言言った言葉、そこに示されていたものがこの島だったとき、私は何も考えずここへ来る決心を固めた。息子はそれ以後、やはりこれも私の勝手な希望的観測なのだがもろくも拒否し、その島以外の言葉を発してはいない。この島に何があるのだろうか。この島の名前を言ったことそれ自体が何かの合図か、私への知らせなのか。私は、それを知りたくて、すぐに島へ行く準備を始めた。
 それともう一つ、息子のことがあって以来思い出すのだが、妻自身、蒸発する前にこの島のことを私に話してはいなかったかということだ。それがどういうとき口に出たかはっきりとはわからないが、今記憶をたどれば無理にだがそれと関係のあることを思い出せそうな気がする。何か息子の言葉と過去妻が言ったかもしれぬその言葉とが重なりあってくる。それは大きな憶測だが、もしかして妻の出身はこの島ではなかったかと言うことだ。私と知り合う前、妻は私の勤める役場とは反対側の小さなゴム工場で働いていたのだが、そこでコンピューターの中に組み込まれる厚手のクッションになるゴム板をつくっていた。頂度昼食時、これも二人の勤め口の中間点に位置していた食堂で会って以来親しくなり、彼女も私も周りから見ていてもあまりにあっさりしていると思えるぐらいすんなり結婚をした。
 ところが妻は、その後、右腕をロックされたまま工場の機械が作動してしまう事故に遭い手首から下が麻痺する症状に苦しみ、仕事を辞めてしまった。そして、一人の不具者となった妻は、母親として家にいるときなど、息子が生まれ寝かしつけるとき、私があまり聞き慣れない子守歌を歌って聞かせていたのだ。私がそのことをある機に訊ねると、日頃明るい妻には珍しく懐しむような遠くを見やるような目でこの島のことを口にした、そんなことが確かに幾度かあったのではなかったか。いや、あれがこの島のことだったかどうかは今となっては記憶も半分霞みがかかったようで朧ろだし、わからない。かりにこの島だったとして妻がこの島出身であったということとは簡単には結びつかないだろう。すべては私の考え過ぎだ。しかし、今日、最初にこの島の記録を始めることを決意した以上、この二つのことはどうしても記しておかずにはおけないことなのだ。
 そして記録は次のページへと進んでいた。

 ○月○日 日曜
 奇妙なものを発見した。まるで、空中でなだらかな曲線を描き、そのまま速度をゆるめず距離を詰め飛んでいくような、そんな気配を感じさせる不思議な鳥のようなものだ。島のものは『シロチョウ』と呼んでいる。夜にしか見ることができない。白い羽を広げシロチョウと呼ばれるその鳥は、いくつか列をつくり、飛んでいる。それは、得体の知れぬ物体で、いつもこの島に散乱している最近急に増えてきた、出所のはっきりしない寄せ集められたごみの幻影だと、今日、初めて会った島の男が教えてくれた。ごみの幻影? それがなぜ、空を飛ぶように見えるのか。この島には、わからないことが少々多すぎる。たくさんのどこから生まれたのかもしれぬごみのようなものが、この島の住民にとってはある種の潤いをもたらしているようだ。そのシロチョウの鳴き声を聞きたいと昨晩耳を欹たが何も聞くことはできなかった。鳥の鳴き声、そう、この島に渡る以前も、この島にやっ来てからも、もう久しく聞いてはいない。私自身、この島に来て自分自身わかるのだが、はからずもあるものを期待しているようだ。胸の高鳴りこそないが、神経が一つ一つゆるやかな動きを見せ各々の方向へ首を抬げ、傾いで行っていることがわかる。それは結局、行方不明になった妻の居所なのかも知れない。
 そろそろ夏も終わる。テント住まいも、いよいよ今日までということになった。海岸沿いの空き家になってしまった漁師の家の移し替えを今日の夕方終えたのだ。島のものたちはそれを快く協力してくれた。代償の要求はいっさいしない。彼らには、私たちはどう映っているのか。突然訪れた不可解な人物、それとも島へのやっかいな子連れの陳入者か。 息子は相変わらず黙っている。海のしぶき、風の音、土の匂い、息子は何かを感じているはずなのに、あの子は実に静かに一日の振舞をさも作業のようにこなしていっている。八年間、息子の声を忘れてしまった私は、ここへ来て日記を書くという仕事をひとまずやっていくことを自分自身に引き受ける決心を固めた。息子の声を聞きたいためではなく、妻と息子と、この私がこの島とどうかかわっていくのかわからないかぎり、これから先のことが見えてこないからだ。島は相変わらず不思議な音を奏でている。その音は時には私の聴覚を顫わすが、おおむねほとんどは体の中にある空洞の一部を潤すこともなく、さらに乾かすかのように太く、時には強く押し流すかのように通り過ぎていく。
 妻の出ていった日のことを、今は息子の寝顔と簡単に写し変えることができそうな、そんな夜だ。いっそ、息子ともども姿を消してしまってくれていたら、と、よからぬことまで考えてしまう。波の音は、たまに湿気た闇に鳴る風と一緒に、いつのまにか降り始めた夜雨にも似て、やさしさを中にたたえているではないか。きっとそんなものが私を妙な考えへと走らせているのに違いない。

『島』・その七

 ○月○日 月曜
 それにしても、あの暗く、扉を持たない建物はなにか。昨日、この小屋に引っ越して始めて息子と一緒に散歩に出たのだが、あの建物を見ると息子の様子が信じられぬほどに変わってしまった。まるで今にも吸い寄せられ、壁に躰ごとのみこまれていくような、そしてそのことを何も恐れていないように一心に壁に擦り寄り、頬擦りまでする息子の姿は、さすがに私にも理解できないものがあった。
 息子は、なにを思っているのか。どうしてあの日以来言葉を出さなくなってしまったのか。そしてこの島の名前。明日、建物のことはくわしく調べてみようと考えている。私にどこまでできるかわからないが、今私にできることはやはりそれしかないような気がする。 
 
○月○日 火曜
 建物は意外に艶がない。粗い目をしていた。しかし、昨日見たときとどこか違っていた。ここだとはっきりとは言えないが、生き物のように少しづつ変化しているように見えたのは、まんざら日の照り加減だけではなさそうだ。私は、壁の至る所に手を触れてみた。手の指の感覚を越えて、胸の奥へ迫ってくる何かがあると思ってやってみたのだが、如何んせん私自身まだ注意を集中するには不十分過ぎ、一つのことを求めるには揺るぎない意志を欠いているようだ。あの建物を前にすると、なんだかわからないが、強い願いのようなものをこちらが持っていないと通じないような気がしてくる。建物がなんで出来ているのか不思議に思うところだが、どうもコンクリート質のものでないことだけははっきりした。それでは、いったい何なのか。建築物の専門家でない私には、はっきりとした結論を出すことはできない。人工の建造物として島にある以上、この島で供給できる材料を使っていることだけは確かなはずなのだが。
 息子は、今日一日、私と別行動をとっていた。もうそろそろ、島の生活にも慣れてきているころだ。私と一緒でないとき、息子にどんなことが訪れているのか、それがおそらく、これから私と息子との先行きを、徐々に決めていくことになるのだろう。鳥がまた飛んでいる。シロチョウだ。私自身、この島を息子があの建物に見せる態度のように愛せるようになるには、まだとうぶん時間がかかりそうだ。息子の目が今は、静かに輝いている。波の音と同じに、まるでそれに呼応するかのように。聞こえない言葉を息子は既に、いつのまにか私に向かって発し始めているのかも知れない。私はそれを、早く受け取る準備を整え、ひたすら待ってやらなければならない。 

『島』・その八

 …夢なのだろうか。
 年老いた男が一人、街中をひょろひょろと歩いていた。
 よく見るとそれは、彼の父親なのだ。
 父親が痩せさらばえ、今は見る影もなく、乱れた寝間着姿で街中を、しかもデパートのような雑多する人混みをふらつく足取りで歩いている。それを慌てた様子で引き止めようとする店員、それを振りほどき尚歩き進もうとする父親は、病院から抜け出してきたのかそれに応える充分な力は持っていない。あっけないくらいに簡単に捕らえられ、人混みから見えない場所へと連れ去られていく。よく見ると、店内ではクリスマスツリーが飾られ、歳末のバーゲンが行われている。すぐに周りから哀れなくらいがっしりと取り押さえられた父親の縦に歪んだ顔とその声が聞こえてくる。
 はっきりとは聞き取れないが「海にいかせろ。海にいかせろ」その声はそう叫んでいる。
 アサリ漁と海苔の養殖、それにわずかな田畑で生活を立ててきた父親。
 しかしアサリは年々減っていき、海苔漁も次第にやってきた機械化に対処しようと、借金して買った機械の払いに終われる毎日がつづいた。シーズンの合間には、日雇いに出、暗くなり闇から現れる土固まりのようになって、毎晩ぬーっと帰ってきていた父親と母親の顔がそのとき彼には浮かぶ。そんな彼の父親が、今、叫んでいる。
 彼は悲しくなった。
 ところが、目を開き、しばらくそのことをまんじりとせずじっと考え込んでいると、それは実は父親ではなく、彼自身のことではないのかと思えてきた。海にいきたいと切々と叫んでいたあの声は、紛れもない彼の思いと声ではなかったかと。すると今度は、この島の姿が浮かんできた。島にいる彼本人の姿がである。島が、そんな彼の願いを聞き入れる場所だとでも言うように、そのとき島の全容は静かな波しぶきの中に穏やかに浮かんでいた。そうやって、また一段と悲しみが自分の胸に押し迫ってきたとき、彼は、その感情に耐えられなくなってきた。どこまでが夢かわからない、そんな夢を彼は、見ていた……彼は目が覚めた。いつのまにか彼は、まどろみかけていたようだ。彼の泊まった宿のすぐ隣の楼に吊された半鐘が高く鳴っている。島のどこかで火事が起こっているらしかった。彼に、よからぬ予感が走った。
 布団から跳ね起き、『もしかして……』部屋から出ると、階段を駆け降り、外へ出た。それは、タケダのいる山寄りの方角だった。彼は、自分の判断に決して早すぎはしない確信を持った。着ている衣服もそのままに、急いで宿の外へ出た。タケダ住む小屋のある方角が赧く山間に照らし出されていた。
 彼は尚急いだ。彼がようやく見覚えのある小道へ出たとき、タケダの小屋は見る跡もなく焼け焦げ、崩れ落ちていた。彼の頭には、すぐに残されたノートのことが浮かんできた。
 あのノートが置かれていた棚は確か、あの辺りではなかったか。 
 彼は、まだ記憶に新しいその周辺をしっかりと見回した。回りには、島の若い者の一部で組織された消防隊の数人が取り巻き、まだ残る燃え滓と火の粉を無表情に眺めていた。白い粉が、打ち倒れた木切れに吹いていることから、消化には、海から湧き上がってくる井戸水を使っているらしいことが、たった今、来たばかりの彼にも見て取れた。しばらくし落ち着いてくると、タケダと息子のことが彼には気になりだした。これと言った人だかりもなく、遺体を囲んだ集まりもないようだった。
 彼は、近くにいた男に訊ねてみた。
 男は、ゆっくりした動作で彼の方に顔を向けた。すると、その男は、なんと暮れ方、彼にこのタケダの家を案内したあの顔なのだった。消防隊の火を通さない厚手の服を着込んでいるため外見からはわかりにくいが、その容貌は彼には忘れられない顔だった。
 「あの人は、いませんぜ」
 男は言った。
 「わたしもすぐに火を消しに来たんですが、もう姿はありませんでした。おそらく、頂度、外出してたんじゃないかと思うんですが、……なあに、小さな島ですよ。騒ぎを聞きつけてそろそろ姿をあらわしてもいいころでさ」
 彼は、その男の言葉を信じ、待つことにした。消防隊や、見物客が一人、また一人と消えていき、火事場には彼とその男だけが残った。彼は不安になった。もしかして、タケダと息子は既に骨まで燃え尽くし、死んでしまっているのではないのか。そのことを知らないのは自分だけで、のほほんと待っても帰って来ない者を待ちつづけているのではないのか。
 生きていた形跡さえとどめぬほどに無残に灰となり風に吹き飛ばされ土中へ散在してしまっている親子の影だけが、今も形を残し、地面にくっきり苦しげに残っている、そんな光景が彼に浮かんだ。日記のノートは既になく、頼みの本人たちもこの島から消え失せてしまったとしたら、彼自身このまま島に残り、また今の地点から不可解な疑問を解いていかなければならないことになる。
 そんなときだった。男が叫んだのは。

『島』・その九

             倉庫・その1

 「ごらんなさい。シロチョウでさ」
 彼は、自分の今いる場所ががらくたに堆高く積もらされ、そのがらくたが艶やかに舞う、その真っ直中にいることに今さらながら気づき、愕然とした。それは、夜になると予想外に多く思える、その白蝶の数によるものでもあった。だが、彼には、男が言うほどに、そのがらくたが宙を舞う蝶のようには見えなかった。
 「シロチョウが、この島の至るところを蔽うようになってから、火事になってそれに燃え移れば、この島全体に、あっという間に火の手が上がり、焼け尽くすことくらいおわかりでしょう。それで、わたしらも、火事にだけは備えておこうと井戸をせっせと掘り、自衛団のようなものをつくったってわけでさ。しかし、このシロチョウと、島が沈んでいることと、一体どんな関係があるんですかね」
 シロチョウが一匹づつ舞う暗闇の中で、珍しく男の方から、彼に問いかけてきた。
 彼は、「表面だけから言えば、今はもう島全体は沈んでいないんだよ。この地表も海抜より上は、何も変わってはいない。しかし、海面下の沈下は、ぼくがここへ来たときと同じなら、今尚沈みつづけているはずさ。不思議なくらい、ゆっくりとだけどね」少しばかり親しみを込め話した。男は、さもわかったと言うふうに宙を飛ぶがらくたを見詰めていた。がらくたは、羽を広げ、そこから発せられる扇形の蒼白い光だけは、そうは見えない彼の目にも差した。明け方まで待ったが、タケダと緘黙の息子は現れなかった。がらくたは、夜が明けてくるにしたがい、嘘のように影をひそめ、それは頂度、蝶がせっかく伸びきった羽を押し止どめ、落ちていた草木でも拾って身に纏い、固い殻を被った蛹に戻ったようだった。「確か、海岸に倉庫があったよね」彼が唐突に言った。
 「三つあったと思うんだが」
 男は答えなかった。それは、聞いてて答えないのか、知らないので答えることができないのか、その両方ともとれた。
 「倉庫だよ。とても大きい…」
 彼も、必死だった。タケダのノートも親子もいなくなった以上、ここからは倉庫だけが頼りだった。海岸べたから打ち寄せられたかのように多くのがらくたを周りに侍らせていた巨大な倉庫。出入り口もなく、高く聳え立つ灰白色に近い色を持つその建物は、何やら近づいてくる者を包み込んでしまう威圧さを湛えていた。
 「島の者は、あっちの海岸にはいきません」
 男が、戸惑ったように言った。
 「わしもそうだが、使うのは西側の港だけさ。おそらく、あんたの言っているのは、南の海岸のことだろうが、そっちは行ったこともないし、何があるかも知らんよ」「しかし、あの倉庫はどう見ても……」
 彼は珍しく、相手に食い下がろうとする姿勢をとったが、彼自身、これから倉庫の方へ向う心積もりは既にできていたため、男をそれ以上追及することはしなかった。日が徐々にだが確実に昇ってきていた。彼の休暇は今日を含め、あと二日しかなかった。だが、彼には焦りのようなものはなかった。と言うより、そのような心が起きようとするとそれに言い聞かせていた。男を今問い詰めたところで、何が出てくるわけでもない。それでいてまた振り出しにもどったという気になる必要はないのだ。生きているのであれば、いつかまた親子は必ず姿を現してくる。それは、倉庫がすべての鍵を握っているだろう。

『島』・その十

 彼は、緘黙の息子が倉庫を見たときの行動が気になっていた。
 タケダの日記には、膚を擦り寄せ、今にも吸い込まれていくような、そんな気配があったという。彼自身、倉庫に確かに奇妙な力を感じないわけではなかったが、むしろそんなことより、倉庫の役目の方を知りたかった。島の浮上する役目としての倉庫、がらくたの集まり、記録を決意した男とその緘黙の息子、そして失踪した不具の妻、島の住民、男……。
 彼は自分が地質の専門家であることを、もう少しで忘れかけようとしていた。もっと、この島を海洋や地体の構造、または大きな規模の変動でみたらどうだったのだろうか。そんな疑問が湧いてきた。そうすれば、きっとこんなことはよくあることで、実に早急かつ簡単に解決できていたことだったのではなかったのか。彼自身、わざわざこんな島にまでやってくることはなく、今頃は、他の仕事仲間と同じように別口の調査を何食わぬ顔でやっているそんな自分の普段の顔が浮かんできそうだった。彼は、早く倉庫のことなど終えてしまい、この島を出たくなった。そして実際にそのようになることを信じ始めていた。
 一度宿に戻った彼は、後数ページを残したノートをリョックに詰め身仕度を整えると外へ出た。その時、畑仕事があるからという男を、強引に彼は引っ張ろうとはしなかった。むしろその道筋として、彼一人で向かう方が良策だと思った。倉庫を見てみたいという好奇心より、あまり生活に不必要なものには触れずにおきたいという気持ちの方が男には勝ったに過ぎないのだ。彼は、その選択をより自然なことと考えた。
 倉庫までの道程は、昨日とくらべると随分、短くなったように彼には感じられた。がらくたは昨日彼が見たときと同じように道と道とを任意に隔てる目印のように至る所に転がっていた。
 海岸へ出ると、三つの倉庫がそこには、あった。巨大で、しかも堅固そうな、日の光を浴びながらもその光を直接跳ね返すことはなく、壁面にそのまま残照としてとどめ内に行けば行くほど力強い震動を繰り返してるような物体にそれは思えた。彼は、倉庫の周りをもう一度、歩いてみた。高さもかなりあるだけに、彼目がけその期待を裏切り、たちどころに崩れ落ちてきそうな気もした。彼は、今あらためてその周囲を歩いてみて、昨日歩いたときとさほど変わっていない印象を建物全体から受けとった。
 彼は、時々立ちどまっては、倉庫を触ってみた。タケダのノートに書いてあったように、日々変化していくような軟らかく生き物のように蠢く感触こそないが、やはり何でつくられているか不明であるところからくる不安定なものを堅固さとは裏腹に彼に差し出してきているようだった。彼がそれを最初に滑らかさと取っても不思議ではなかった。つまり、倉庫は、よく計算され建造されていた。彼は、二つ目の倉庫へ差しかかったとき、その場に踞み込みがらくたをゆっくりと横へとどけた。がらくたの下にはまた、がらくたがあり、自分自身専門の地質の分野に早くたどりつきたい衝動で、次々とがらくたをのけていった。がらくたのくわしい組成よりも、その下にある地表なら地表そのものに興味があった。彼は、自分の動作を一瞬だったが信じたように思った。だが、そこには、取っていっても取っていっても、同じようながらくたしかないのだった。彼は、このがらくたが、地下から次々とつくられ地表へと上昇してきていることに、今、ようやく気がついた。道があるというよりも、がらくたそのものが偶然境目をつくりだし、そこに、たまたま人が歩けるほどの道ができているという状態も、これで頷けた。その意味で、もはやこの島には道はないのだった。別の言い方をすれば、どこを歩いても、そこは道を意味した。彼は、そう考えた瞬間、早速がらくたの中を突っ切っていった。二つ目の倉庫は、そうやって歩いて行った方が遥かに近い。
 巨大な倉庫の撥ね返す光がやや弱まったようにそのとき彼には思えた。

『島』・その十一

 二つ目の倉庫を歩き始めたとき、彼の方へ、一つの影が近づいてきた。その影は、よく見ると、彼に手を振っているのだった。彼は、しばらくその影を目で追った。影は近づくにしたがい、彼に見覚えのある顔形になっていった。男だった。畑仕事へいっているはずの男が、日焼けした顔を彼の方へ近づけずんずん歩いてきたのだ。
 「どうも、気になりましてね……」
 男は、いかにもばつがわるそうに表情を少し堅くすると、すぐに彼の隣へ歩み寄り倉庫を見渡せるかぎりぐるりと首を動かし見回し始めた。彼は、男にここへきてからの簡単なあらましと、がらくたの生成が、地下から次々に行われているらしいことなどを話した。またタケダとその息子がまだ姿を現さないことも付け足した。彼は、ここへきて初めてそのとき、その男の名前を聞いた。男はケンゾウと言った。ケンゾウは、確かにここへ来るのは初めてらしく、巨大な倉庫にどう対処していいのか最初わからない様子だった。来てからすぐは、露骨に戸惑いの色を見せていたが、彼といっしょに倉庫の周りを歩いていくにしたがい徐々にいつもの彼の態度、なかんずく彼が最初にこの島に来て出会ったときの顔付きへと変わってきていた。彼は、この男がこのような状態だとすると、島の島民は、おそらくすべてが倉庫のことを知ってか知らずか確かでないにしろ、さっきケンゾウが言ったようにここに直接近づくことはなく、彼と同じような振るまいをするのではないかと思えた。
 その島民たちが、島自体の生活のことになると特に不自由することなくやり過ごせていることが、彼には不思議に思えた。倉庫は、確かに生活それ自体とは無関係で済ませられる性質を持っているらしかった。彼は、この島が浮上しようとしていることは、実は脆く空転しせり上がって行くリングのような面をこの島が、頂度この倉庫のように内に隠し、抱えているのではないかと予想を立て始めていた。倉庫を見ることは、そんな島の空転する箇所をまじまじと見定めていくことに等しいのではあるまいか。
 二つ目の倉庫の頂度中間点辺りに来たとき、ケンゾウが叫んだ。
 「見覚えのある人がいますぜ」
 タケダだった。タケダが一人立っていた。息子はいず、彼一人だけだった。タケダは、まだ突然のことに少し驚きの色を隠せないでいる彼の方へやってくると言った。
 「君は、わたしの日記をあまりよく見なかったね」
 その声は、昨日会ったときよりやや彼に対して慇懃さはなくなっているものの、相変わらず記録家独特の考え深げな声で、むしろこのときの方がトーンが低いように思われた。彼は、答えるより先にいろいろなことをまずタケダに訊ねてみたい気持ちの方が強く、またそうしようとしたが、それを抑えるようにして「しかし、あれは全部焼けてしまっただろう」慎重に、答えた。 タケダは、軽く首を振り、そんなことじゃない、と言いたげに、またしばらくして首を振り深くうなだれたように後ろを振り向くと倉庫の中へと消えていった。それは、まさしく、倉庫の壁に吸い込まれていくと言えば形容がつく、そんな去り方だった。彼は、タケダが首を横に振った意味がわからないまま、その場に立ちつくしていた。
 「今のは、いったい何なんです?」
 ケンゾウが言った。どうやらケンゾウには、タケダの姿は見えていても、その声は聞こえていないらしかった。
 「さあ」
 彼も、そう答えるしかなかった。彼は、思い出したようにリュックからノートを取り出し、それを開いて見た。ケンゾウは、そのまま倉庫の半分を歩き始めた。彼は、そんな男をほっとき、ゆっくりがらくたの上に腰掛け、昨晩読んだつづきに目をやった。
 そこには、次のようなことが書いてあった。

『島』・その十ニ

 ○月○日木曜
 昨日、一日帰らなかった息子を私は捜しにいった。これまで帰らないにしても、せいぜい日が暮れるまでには姿を見せていた息子が、初めて一日どこかへ消えてしまった。私は、知らぬうちに安堵感を覚えていた。これでしばらくは、息子から解放される。いろんな煩わしいことや紛らわしい感情に振り回されなくて済む。そんな気持ちだった。また、もしかして息子はこのまま永久に姿をみせないのではないのかという危惧ともつかぬ揺れる感情も持ったのも事実だ。私が息子を捜しにいく? 緘黙の息子が答えてくれるかどうか、それだけが心配だった。私に見当がつく場所が一つだけあった。海岸の水飛沫がとどくかとどかないかのその場所で、島民の言う白蝶に囲まれ悠然と立っている三つの倉庫。その倉庫を見たときの息子の様子が私には何よりも手掛かりだった。
 倉庫の周りを歩いていて、一つ目のときだった。妻の声がしたのは。
 「あなた、やっぱり、来たんですね」
 その声を聞いても、私の心は思いの他落ち着き動揺を示さなかった。
 「この島のことが、よくわかりましたね」
 私は声になったかどうかわからないが胸の中で呟くような声で、息子が妻の失踪後まったく言葉を言わなくなったことと、あるとき不意に漏らした言葉、それがこの島の名前であったことを説明した。
 「わたしの右手はもう思うようには利きません」
 「わかってるよ」
 私は、その声に対しできるだけ相手を刺激しないよう気をつけ言った。
 「君は、この島で生まれたんだろう」
 私も声に訊ねた。
 「ええ、そうです」
 一つ目の倉庫を初めて見たときの息子の様子が、それで頷けるような気がしたし、やはりそうだったのかという納得してしまう奇妙な気持ちだった。
 「なぜ、君はこの倉庫に」
 声の返事がしなくなった。私は、聞いてはいけないことを聞いてしまったのでは、という一瞬後悔にも似た念を持ったが、すぐに気を取り直し「いつ帰るんだい」声はやはり、返事をしなかった。
 「トオルがいないんだ。今、捜しにきたところさ」
 声はもう、遥か遠くへ行ってしまったかのように空気を揺るがす震動のようなものさえすっかり消え、なくなっていた。
 私は、二つ目の倉庫へと進んだがそこには誰もいなく、三つ目の倉庫にすすんだ。息子がいた。トオル、トオル、私は息子の名前を叫んだ。今まで家にいるときも、また、この島に渡ってきてからもそんなに子どもの名前を呼んだことのない自分がどうしてと、我ながら自分のやっていることに疑問を持つほどだったが、妻と同じように息子もまた、幻影のように遠くへ消えいってしまいそうな気が心の奥底でしていたため、思い切った行動がとれたのだと思う。息子は、キョトンとした目をこちらに向け、私のいる方へ歩いてきた。私は、息子の手を引きその温かさを確かめる間もなくさらに強く引き寄せると、そのまま連れて帰ろうとした。息子は、時々手を引かれながらも振り返り、倉庫の方をじっと見ていた。

『島』・その十三  

            倉庫・その2


 彼は、静かにノートを閉じ、またさっきとは逆にそれをリュックに入れ、歩き始めた。一つ目の倉庫では、タケダが、自分の妻の声を聞き、二つ目の倉庫ではその息子が憑かれたように立っている情景とぶつかった。そして、同じ場所で、今度は倉庫から現れ倉庫へと消えていくタケダ自身と彼が出食わした。彼は、三つ目の倉庫へいけば、おそらく後はただ一つ残されている緘黙の息子、トオルに出会える気がした。さっそく三つ目の倉庫へ行くとき彼は、途中まで一緒だったケンゾウのことを思い出した。今頃は、ここからは見えない二つ目の倉庫の反対側を、あのいつもの顔で歩いていることだろう。彼は、男のことより次の倉庫の方が気になり、そのままがらくたを跨ぎ進んでいった。 目指す三つ目の倉庫に着いた。そしてそこに……、やはりトオルがいた。
 「トオル、……、君の名前はトオルだったね」
 トオルは、微笑んでいた。
 「君のお父さんが、昨日紹介してくれたんだが……」
 トオルは、返事をしなかった。「おじさんを覚えているかい。君と会うのは、これで二回目だけど」トオルの表情に変化はなかった。沈黙が、しばらくつづいた。トオルは、立ち去ろうという気は毛頭なく、それでもトオルが自分に向かって話しかけてくれることに対してはやや悲観的な結論を持たざるを得なくなっていた。どうしていいのか考え、結局、諦めきれないでいる彼がトオルの方へ歩み寄ろうとしたその時だった。
 「来なくていいよ、おじさん」
 紛れもなく、彼が初めて聞くトオルの声だった。
 「ぼくはしゃべれるんだよ。心配ない。だからそこにいて」
 彼の体の中に電気が走ったような強い衝撃が、このときおとずれた。が、彼自身、持ち前の研究所勤めの細かな探求心で、重ねてトオルに訊ねた。
 「いつから、しゃべれるの」
 「ずっと、前から」
 トオルは、屈託のない返事をした。
 「ずっと前って、君はカンモク……」
 トオルはまた、いつの間にか彼から視線を逸らすかのように顔を横に傾け、僅かに含恥むように微笑んだ。
 「あれは、全部うそ」
 「うそ?」
 「そう」
 トオルは、彼に納得してもらうため、解りやすいように大きく頷いてみせた。
 「お父さんが、ぼくに黙ってろっていったんだ。そうすれば、お母さんに会えるからって」
 「お母さんに会える?」
 彼も、さすがにこのときは、知らぬ間に大きくなっている自分の声に驚いた。  「つまり、どういうことなのか、おじさんにもう少しくわしく説明してほしいんだが」
 トオルの話は、こうだった。

『島』・その十四

 「たしかに、ぼくは、お母さんがいなくなってから言葉を話さなくなってきたよ。学校へ行ってもだれ一人、先生とも友達とも話さないし、家では父さんとも話さなかった。でも、そのうち少しずつ回復はしてきたんだ。そんなとき、父さんが、島へ行こうと言い出した。そこへ行けば、母さんに会えるって。それでぼくも、嬉しくなって喜んでこの島へやってきたのさ」
 話は、まだ先へとつづいていた。
 「島へ来て一週間ぐらい過ぎた頃だったかな。父さんがぼくに、急に言葉を話すなって、言ったのは。この島の倉庫で母さんに会った。母さんは、その倉庫の中にいる。だから言葉を話すなって。父さんは、母さんがいなくなったのは、右手が不自由になったことが大きな原因じゃないかって言っていたんだ。それで母さんは、自分の生まれ故郷に帰って、治療してるんじゃないかって。この倉庫は、そんな場所じゃないかって言ってた。それで、お前も、また言葉を話さなくなれば、この倉庫へ入れるって。父さんも必ず行くから心配するな。それでぼくは、そのときからずっと、しゃべれない振りをしてきたってわけさ。以前実際に経験があるから、前よりもよっぽどうまくできてたんじゃないかって思っているよ。おじさんも、まんまとそれに騙されたね。」
 彼には、しかし、トオルが今話していることがほとんどと言っていいほど信じられなかった。
 「君のお父さんが書いていた日記はどうなるんだ」彼はまず、その中から一つずつ疑問を片付けていくつもりですかさず訊き返した。
 「日記なんて、適当に父さんがつくって書いたんだろう」トオルも素っ気なかった。彼は、訊ねた。「それで、君はお母さんに会えたの」
 トオルの顔色がたちどころに変わり、深い陰影を鼻嶺から頬にかけて漂わせ始めた。色白の肌からより一層血の気が失せたようになり、今にも前のめりになって倒れそうだった。
 「会えなかったんだね」
 彼もそんな気ではなかったのだがトオルに言葉を投げかけ、結果としては深追いする形となってしまった。トオルは、それには答えずゆっくり後ろを振り返り、そのまま三番目の倉庫へと消えていった。彼は、トオルがいなくなると、急に、何やら胸騒ぎを覚えすぐに二番目の倉庫へ引き返した。途中で別行動を取ったケンゾウが気になったからだ。だが、男の姿は、もうそこにはなかった。また、一人倉庫に消えたことを、今度は彼自身さほど奇異には感じずすんなり認めることができた。
 「一番目の倉庫には母親、二番目には父親とケンゾウ、そして最後の三番目の倉庫には息子が消えていったってわけか」
 彼は、少しずつ目の前で起こってきたいくつかの出来事を繋ぎ合わせ、それらを事実として幾分なりとも肯定するような言葉を呟き、胸の中を満たしていた。しかし、からくりの概要がわかってきたからと言って、その本当の仕組みはまだ掴んではいなかった。仕組みがあるのかないのか、それさえはっきりしなかった。とにもかくにも、何人かが、彼の目の前に現れ、その何人かが倉庫へと消えた。
 彼は、トオルの言ったことを思い返していた。
 トオルがずっと前から話せたことは、確かに事実かも知れなかった。父親であるタケダが強制し黙らせてしまったことも、まんざら絶対ありえないことではなかった。ところが、彼にはどうしても、あの日記だけはでたらめにタケダがあることないことをでっち上げ、つくりあげたものとは思えなかったのだ。彼は、ノートをリュックから取り出した。ぺらぺらと捲ってみたが、今まで読んだこと以外の記録をそこから発見することはできなかった。彼は、今自分が二つ目の倉庫の前に来ていることを、ふと新ためて確認した。
 思い直したように彼は、もう一度目の前の倉庫を見た。
 最初の威圧さはなくなり、記録にも書いてあったとおり、確かにさっきまでとは打って変わり、何か壁面の組織に微妙な違いが表れてきているように思えた。人をのみこみながらこの三つの倉庫は、変わっていくとでも言うのだろうか。彼は、静かに息を殺し待った。
 しかし、記録家は、二度と姿を現さなかった。

『島』・その十五

 彼が、宿に着いたとき、既に時間は昼を過ぎていた。
主人は、彼よりもはるかに大柄で、思いの他、色白の男だった。
白い肌から血管が透き通るというほどではないのだが、それに近い皮膚の薄さを感じさせた。躰のわりに肉は柔らかそうで、中に大きな空洞をポカンと持ち合わせているのではないかと思わせるほど腹部は大きかった。
その空洞は、心の寂寞というようなものではなく、まさしくただの肉と骨とに囲まれた空洞だった。その空洞が周りの内臓をゆるやかに押し潰しながら、それでも潰れまいとする筋肉の収縮と跳ね返す弾力とで、この主人のやや肥大した下半身に見合った上躰は支えられているという気がした。
彼は、宿につくと主人に言った。
 「今、南の海岸の倉庫に行ってきたんだが」
 主人は、頂度、宿の調理場、と言ってもほとんどどこの家でも見掛けることのできる台所を少し大きくした程度のところから姿を現し、すぐには答えなかった。
 彼は、その後ケンゾウの名前を言い、主人に訊ねた。
そのとき男がいなくなったことはまだ伏せておいた。
 「その男だったら知ってるよ」
 主人は、話題が島の男のことになると我然態度を一変し、さも自分が土地の人間のように例の中太りの顔をゆっくり回転させ彼の方へ向けた。
 「そいつは、母親と二人で住んでいる」
 主人はあっけらかんとした様子だった。
 彼は、もう一つ主人にタケダの妻のことを訊いた。
 最近、この島出身で右手が不自由になり戻ってきた女性を知らないか……。だが、主人は、それには簡単に首を振り、まったく見覚えがないと答えた。
 「ところで、この島の年寄りは、どうしたのかな」
 あまりいい聞き方ではなかったが、この際はっきりさせた方が自分も助かると思い直し、次にそのことを彼が聞いた。
 「三年前来たときより、少なくなったように思うんだが」
 それにつづく言葉が咽喉の奥から声をつかみ出し、その声を強引に手なずけほぐしてから差し出すような言い方になってしまった。
 主人は、それにも「さあ、死んだって噂も聞かないし、大方家の中に引っ込んでるんだろう」頓着なかった。
 彼は、それもそうだと考え、一旦そこから引き下がろうとした。ケンゾウの家に今すぐ行ってみたいと考えたからだ。それは、主人の言葉が確かに的を得た適確な内容であったにせよ、彼自身の、どうも合致しないあやふやな製図の隙間を埋め合わせ納得させるまでの説得力がそこにはなかったことも意味していた。
主人に、大体の男の家までの道を教えてもらい、彼は簡単な食事を済ませてから出発した。
 その家は、そこから意外にも近い場所にあった。
 ケンゾウの母親とやらに会えるだろうか。
 息子が倉庫に消えてしまったことを知れば、さぞ悲しむだろうな。彼は、そんな殊勝げなことを考えながら、内実別に他人の家庭のことなど気にもしない自分の性格を知り尽くしていたため、妙に胸に巣くったざわめきだけが気になりその正体が何なのか、今こそ考えるべきときが来たように感じていた。ケンゾウの家は、近いからといって、ただ平板の上を歩いていくというわけにはいかなかった。がらくたを抜け、少し奥まった感のある入江のような切面の土手を越えた、島の中ではやや高所の見晴らしの良い丘の中腹ではと思えるところにあった。
 がらくたの数は、彼の気のせいかわからないが意外に少ないように思えた。

『島』・その十六

 
家は大きな柱を四つほど使い、その上に一本一本梁を組ませ屋根を敷いていた。母親らしい女が豆をブリコで叩き、殻をしきりに剥いでいた。ブリコは唸る音を立て、脇の下から耳元を掠め、きれいなひょうたん型を描きながら茣蓙を敷いた豆の上へ着地し、できたばかりの蛹のような殻を豆と一緒に弾ていた。時々、老女の深い溜息か、躰から洩れる暗く硬い疲労の名残りが、深く周りの空気とたゆとい、彼にも伝わってきた。 彼が近づくと、母親は作業を止めた。
 「あの、息子さんのことできたんですけど」
 「はあ…」
 母親は、耳が遠いらしかった。
 「あ・な・た・の・む・す・こ・さ・ん・で・す・よ。自・衛・団・に・は・い・って・お・ら・れ・る」
 「はあ、はあ」
 母親は、一語一語を区切り、耳元で聴かされるとやっとわかったらしく、彼を家の中へ招いた。彼は、せっかくの申し出を断る理由もないと思い、それに従った。家の中は、主人が教えてくれたように二人暮らしの生活がそのまま染み込んでいるように、調度類もなく、がらんとしていた。ただ、縁側から外を覗くと、確かにそこが島の丘の中腹に位置するらしく、さっきの宿も、今、彼が来たばかりのがらくたの道もきれいに見渡せるのだった。そして、もう一つ驚くべきことがあった。海岸にキラリキラリと、あたかも空を飛ぶ飛行機の尾翼のように光るものがあったのだ。
 『倉庫だ』
 彼は、すぐに思った。
 そうか、ここから倉庫が見ることができたのか。だから、ケンゾウは無関心を装いながらも密かに気になっていたのに違いない。彼は、ケンゾウが最初にこの島で出会い、タケダの家へ案内してくれたことも、火事場でまた顔を合わせ、その後自分の意志で倉庫にやってき、消えてしまったこともこれで結びつくような気がした。たとえその僅か一部でもここから倉庫を毎日見ていた彼は、南の海岸に行かないにしてもそれ自身、何とはなく障りのようなものとなって意識に残っていたのではなかったか。つまり、倉庫は今のところ、倉庫に近づくもの、それに何らかの形で関心を向け、働きかけようとしているものを順次のみ込んでいっていることになる。しかも島の住民か、そこで生れ育った者、または、その家族をだ。彼は、自分が倉庫にのみ込まれてしまわないのは、自分が単なる短期の旅行者に過ぎないからだ、と考えた。
 老人たちはどうだろうか。
 やはり、それは彼の考え過ぎのようだった。現に今、ケンゾウの母親はかなりの年配だが、こうしてちゃんと家にいるではないか。彼は、小さく体を折り畳んで座っている老女を見ながら、そんなことを考えていた。
 「ケンゾウが、どうかしましたか」母親が彼に言った。
 「いえ、それが……」
 彼も躊躇した。ここまできて、自分を叱咤したい気持ちだった。彼は、研究所から僅かに二日離れたに過ぎないのに、既に自分がここへやってきた本来の目的からずれる格好で島の住民とかかわろうとしている自分に気づいた。
 「ここから見える、あの倉庫なんですけどね。あれを私と一緒に調べていたら、息子さんが消えてしまったんです」
 「え?」
 声は驚きに満ちていた。ところがすぐに、「そうですか……」低く咽喉元を苦しげに過ぎる調子に変わった。
 「息子さんは、倉庫のことは知ってたんでしょう」
 「さあ」
 今度は、母親は答えなかった。明らかに息子が消えてしまったことを知ってからは、態度が一転して変わってきているようだった。彼は、ひとまずそこは下り、宿にもう一泊することにした。
 まだ、日が沈むには時間があった。彼は、荷物を置くともう一度火事場へ行ってみた。昨晩は、人の目も気になり詳しく調べることができなかったが、今なら徹底して焼け落ちた小屋の下をほじくり返してでも何かを見つけることができる気がした。火事場の周辺には、誰もいなかった。彼は、遠慮することなく、黒く墨になった木切れをどけていった。ところが、驚いたことに既にその下にはがらくたが頭を出してきているのだった。この小屋が焼けてから、がらくたが出てきたのか、それとも小屋が立ってから、いやもっと以前から既に地下からのがらくたの侵入が始まっていたのか。それは、彼にも今すぐにはわからなかった。しかし、一つ、二つ燃え滓を拾ってみるとどうも小屋の骨組みをつくっているものとは思えぬ奇妙な素材のものが見つかったのだった。 がらくただ。彼は、もう一度そのことを確かめるつもりで掌に拾うと、指先でそれを撫ぜてみた。昨日、初めて触ったときと変わらぬ感触が黒く焦げてはいるものの、その中の方からは伝わってきた。間違いない、……と言うことは、既にがらくたにはこの小屋が焼ける前からかなりの範囲でこの周辺といわず、小屋自体も蔽っていたのに違いない。そのことに気づいたタケダは、小屋もろとも燃やしてしまおうと考えたのでは……。彼は、そこまで推理し、また火事場の特に棚が在ったと思われる近辺を捜し始めた。一時間ほど捜しただろうか。ついに彼の願いが適ったのだろうか、ノートらしきものの燃え滓が出てきた。それは、ほんの一枚で周りの表紙やページに守られ、やっとそこだけが奇跡的に燃え残ったといっていい、そんな代物だった。
 そこには、つぎの一文だけが、ようやく読み取ることができた。
 『だれかがくる。そしたら教えろ。がらくたは死だ』

『島』・その十七

               島

 その夜、彼は宿に帰ってから寝つかれなかった。いよいよ明日、この島を立たなくてはならないのだ。しかし、その決心がまだつかないでいた。彼は、布団から跳ね起き窓の外を見た。頂度目の前のがらくたに囲まれた小道のその上に、土手に隠れるようにしてケンゾウの家があるはずだった。白蝶の翔んでいる姿を、その時は見ることはできなかったが、おそらく闇に散らばっている光がある程度集まらないことには、羽は羽としてかそけくはばたき飛び立つ効力を持とうとしないのだ。彼は、その原理がなぜだか今だったら素直にのみ込める気がした。彼がしばらくそこを見ていたとき、小さな光がその土手を降り下ってきた。ゆらゆらと左右のバランスを時折り崩しながらも、それでも馴れた足付きで、下って来る速さとその辿る道筋に無駄を感じさせない、いわゆる土地の者の動作の運びがあった。ケンゾウの母親であることは、少し明るみに出たときすぐわかった。
 彼は、母親が宿の前を通り過ぎたころ階下へ降り、その後を付けた。母親は、まさか昼間訪問した男がその背中を追ってきているなどとは、つゆ思っていなかっただろう。そのことを裏付けるかのように、がらくたの中をある一つの方向へ向け、たまにふらつきかかることはありながらも大旨、足場を間違うことなく流れるようにして進んでいった。母親の行く方向は倉庫のようだった。息を出来るだけ小さく足音を余り立てないよう気を使いながら、彼は、自分についにここへ来た目的である、なぜ島が沈まないのかその仕組みを知るべきときが来たようなそんな気にもなっていたが、少しずつ島のことを知るにつけ反対に、心が段々とはっきりしたものから、その中にあった情景が真っ白に消され、それに乗じ自分の躰が、がらくたか倉庫にでもなったようにこのまま静かに島に溶け入り馴染んでいってしまうのではないか、とも思えた。
 彼は、そうなることが半分怖かった。倉庫に着くと声がした。それは、彼が予想してた以上の多くの声だった。驚いたことに、光が一つ、また一つと民家のある方角から増えてきている。彼は、がらくたの陰に身を隠した。
「ケンゾウ、あんたどうして」
母親の声だった。
「もう少し待ってくれりゃ、母ちゃんがちゃんとそっちへ行ったのに」
 母親の向こうには、ケンゾウが立っているらしかったが、その声はしなかった。別の場所からも、囁くような、話しかけるような声が次々に聞こえてきた。それは、ほとんどが若いか、もしくはせいぜい四十そこそこの声ばかりだった。十中八九の者が、啜り泣きともつかぬか細い声で闇の中をある一定の調音で満たし、もしもその中に見えない糸があるならば、それを何本も同時に揺らしているようだった。
 「かあちゃん、とおちゃん、おかげで元気にやってるよ」
 息子とその両親らしかった。その隣では「お前の足はどうだい。もう歩けるようになったかい」父親が、娘と話していた。娘はどうやら両足が不自由らしい。
 「おれも、そろそろそっちに行こうと思ってる。子どもたちが帰ってくれるそうだから」別のところでは老いた夫がその妻に声をかけ、「寝たきりじゃ、つらいことばっかりだろうしね。せめて島のためになってくれて助かってるさ」また他では娘夫婦がその父親と語っていた。
 「白蝶が増えてきてから、島は潤ってるんだ。沈む心配もないしね」
 「タケダさんもあんな真似しなけりゃよかったのに」
 ケンゾウの母親は、タケダのことも知っているらしく、ふいにそんなことをつぶやいた。彼は、ことの成り行きをしばらく見守っていた。会話がなされていた。目の前にいる影のような人達との交信だった。それは肉親であったり、知り合いであったり様々だったが、一つだけ言えるのは、全員が島の住民たちであったということだった。タケダや、母親や、その子トオルもその中にいるはずだった。彼は一人、この島に来て最も強く、この時、自分が別の島からやって来たただの旅行者に過ぎないことを意識した。
 灯りは次々とやってき、島の人々は倉庫の前で、暗い押し入れから久し振りに箱詰になった荷物でも取り出すかのように言葉の所在を探りながら、最初がはっきりすれば後は勝手に思いが繋ぎの役目を果たしてくれるというように、影に向かって話しかけていた。些細な日常をさも手短に報告し話しながら、それが済むとまた闇の中へそそくさと帰っていっているのだ。最後の灯りが遠くへ消え、島の者が一人もいなくなったとき、ようやく彼はがらくたの陰から姿を現し、倉庫の方へ近づいてきた。倉庫は、今の彼自身の心を映し出すかのようにその壁面を下の方から徐々に暗闇の中へ突き出していた。闇の先に尚壁がつづいていることはわかりながらも、なぜかだか今彼には、そのままその壁が宙空に押し挾まれながら溶けいってしまっている気がした。

『島』・その十八

 タケダが立っていた。
 タケダは彼に、問いかけるようにして話し出した。
 「君は、やっぱり来たんだね」
 その声はおそらく、さっきの島民たちと同じように彼以外には聞こえていないにちがいなかった。
彼も、「なあんだ、君たち家族は、倉庫の向こうで一緒に暮らしてるのか」
さっき見たままのことを無雑作に言った。
 タケダは、「君から見ているとわたしたち家族は、確かに互いに顔を会わすことができているように思うだろうが、実はそうはうまくできていないんだ。どうやら、一度倉庫へ入ってしまえば、倉庫同士の人間は面と向かってはっきりと確かめ合えない仕組みになっているらしい。互いの存在を知りながらも、その姿を見ることも確認することもできないというわけだ。ただし、島の人間やそれ以外の人間とは、その気にさえなれば会うことが出来る。本当に、その気になればだがね。今、君とわたしとがこうしているように」
「しかし、ぼくは島の住民じゃない」
 彼がそう答えると、
「だから、わたしとこうやって会えるのは君だけというわけだ。気にしないことだよ」と丁寧に返事した。
 彼は、タケダが消えていく前に今度は思う存分、胸の中にあるものを話してみたい気になっていた。彼は、トオルの話をした。
タケダは「そうかも知れないな」幾分、考え込むような籠り気味の声になった。
「だけど、誓ってもいいがわたしの前では話さなかった。八年間、一言も。……けれど、あの子からすれば、事実は……そうだったのかも知れないな」
 深い、自分自身のやってきたことを回顧する念が、そのときタケダには過ぎっているようだった。
「緘黙を強制したこともかい」
 彼は、訊いた。
「いや、そんなことはない。一度もしたことなんてないんだ。でも、あの子にとってはそうだったのかも知れない。そしてわたしも知らぬうちに、あの子の発していた言葉を読み取る前にそれと同じ意味で、緘黙という枠をあの子にスッポリ嵌め込んでいたのかも知れない」
 彼は、タケダの顔を見た。影ではなかった。ちゃんと、目や鼻や口があり、それが言葉に合わせ感情を現し、穏やかに動いていた。彼にはそれが、言葉以上に重い何かを伝えてきているように思えた。
「この島のことなんだけど」
彼はつづけた。
「君は、もしかするとぼくが行ったときには全部知ってたんだろう」
 「ああ、もちろんだ」
 タケダは、簡単に言った。
 「この島を、いや、あのがらくたを燃やそうと思ったんだね……だけど失敗した」
 「ああ」
 タケダは、また同じように答えた。
 「奥さんはどうなの。いなくなった君の奥さん。さっきここにいたんだよ。君の息子トオルといっしょに」
 「しかし、二人とも互いの存在は確かめられないはずだ。このわたしがそうなんだ」
 「男が、やってきただろう。名前は」
 「ケンゾウ」
 「そう、彼だ。あの男は、ぼくと一緒に君の消えた二番目の倉庫を調べていると  き、ぼくが君の残した日記のノートを見ている間、この倉庫へ消えてしまったんだ。同じ倉庫だから、君も知っているだろう」
 「ああ、知っている。しかし、話すことはできない。存在は知ることができても、話したり会って顔を認めたりすることはできないんだ。ただ、なんとなくその存在だけはわかるようになっている。同じ二番目の倉庫にいる男だね。感じてはいるよ。いっしょになんとなくいるってことだけはわかっている。だけどそれだけさ」
 「さびしい世界なんだな」
 彼が言った。
 「さびしいよ」
 タケダも言った。
 「しかし、とてもおだやかだ」
 「老人たちも、この倉庫へ消えていってるんだね」
 「そうみたいだな」
 タケダの返事の仕方に、変わりはなかった。
 「老人たちの場合、人によりけりだろうが、自分たちから進んでこの倉庫へやってきている人もけっこう多いみたいだ。自分の存在が、日常からふっと遠ざかってしまったと思った瞬間に足を運ぶんだろうね。彼らは、わたしたちとちがい、頭の中では、これからもずっと島の住民としてますます日常にどっぷりと入り込もうとしているのに、肉体の衰えがこの島から遠ざけてしまうんだ。しかも、そのことをこの島の年寄りも、それを囲む若い者たちも、まったく当然のことのように受け入れてしまっている。右手が不自由になったわたしの妻も同じ経緯だったんだ」
 彼は黙って、聞いていた。
 「そして、どうなるかわかるか」
 彼は、首を振った。
 「がらくたが生まれるのさ」
 しばらくして、
 「君も今のままだと倉庫にくることになるかも知れない」
 タケダは、別に深い意味もないように突然そう言った。
 「わたしの記憶が、君の記憶になったのだからね」
 彼は、そのことがすぐにピンとこなかった。
「君は、ぼくさ」
 タケダがそう言い、彼もようやくその意味がわかる気がした。
「この記憶がすべてなんだね」
 タケダは唇を揺らし、それに返事をする代わりにその目元で手招きしているように思えた。
 彼は、全身から力が抜けたようになり、タケダといっしょにその背後の倉庫の壁へスーッと引き込まれる気になった。そのときだった。トオルの声がしたのは。
 「おじさん、だめだよ。お父さんの話にのっちゃ。お父さんは、もう前のお父さんじゃない。がらくたは死だよ」
 「トオル、あのノートは、君か……」
 遠くなる意識の中で、彼は答えていた。
 「おじさん、島を燃やして、このがらくたを燃やして」
 彼は、ハッとして我に返った。今までその場に倒れ気を失いかけ、何かの拍子に息が蘇生した人間のように、胸が大きく波打ち、高鳴っていた。彼は、確かに横に倒れ込まないまでも、倉庫の前に屈み込み両腕を前に突き、喘いでいる恰好でいた。最初、体がだるく、壁に押し付けられるほどの胸苦しい感じを持ったが、次第にそれからも遠のき落ち着きを取り戻すと、幾分なりとゆったりとした気分になっていった。何かはっきりとはわからないが、助かった、と彼は思った。彼は、今聴いたトオルの声を思い出していた。

『島』・その十九

 『島を焼く。がらくたに火をつけて』
 彼も、それと同じことを、まだぼんやりしている意識の中で考えていた。
 もし、今、この島が、タケダが言ったように生活から離れてしまったり、日常でない部分に入り込み、肉体にハンディを持つ者まで、例え本人の意志であろうとなかろうと構わずに倉庫に吸い寄せているとしても、仮にそれで無難な感覚を持たせバランスを保ち、その力でがらくたを生成し島の隆起を保っているのであれば、彼にとってそれはとても不自然なことのように思えたのだ。そのような島自体の、また倉庫そのものの仕組みも、またそれによりつくりだされる平穏も、彼にとってみれば、加わりたいという意欲を持たせるものではなかったし、また、不必要なことのように思えてくるもの以外の何ものでもない。
 島は沈まなくてはならない、そう彼は、そのとき思った。
 最初に調査したときにつかんだ研究所のデーターを実証するためにも、地殻とそれにのり流動するマグマや、マグマが冷え固まり僅かに移動を遂げていく岩盤やプレートの歪みに従って地面に微かな揺れをもたらすことで、海面に身を横たえ寛ぐこの島を縁から静かに海水によって浸してやっていかなければならないのではないのか……。
 彼は、立ち上がり倉庫から一歩ずつ遠ざかりながら、既に頭の中ではそんなことを一心に考えていた。彼に、すぐに浮かんできたのは、自衛団の存在だった。島の若い者たちが、がらくたの火災など、もしものときに備え組織していた集団だ。しかし、その人数は、島の全体数から見てもたかが知れている。タケダはそのことを頭に入れず、一箇所から火を点けたため失敗したのだ。彼は、何箇所からも次々に火を起こせば、たちどころに島は火の海へと変わり、がらくたは燃え尽きていくだろうと考えた。まず一つ火災を起こし、それに皆が引き寄せられている隙に別の場所で次々と炎を舞い上がらせながら攪乱させていけばいいのだ。彼は、実行を急ぎたかったが、その夜は気持ちを押さえるように宿に戻り、日が昇ってくるのを待つことにした。
 まず、朝、主人に煙草を吸いたいからとマッチをもらった。次に、少し早く立つつもりであることを告げ、早速荷物をまとめにかかった。宿を去る時、彼は、一体どことどこに火をつければ、より効果的にこの島を今も音を立てることなく蔽っているがらくたすべてを焼き払うことができるか考えていた。胸の中には、もう既にその炎が先走り、渦巻いているようだった。彼は、西側の港へ向かった。そこには、定期便とは別に幾艘かの漁船があった。幼いときから父親と船にのり海苔漁に出掛け、海苔網を牽引機で巻き上げ仕事を手伝い、中学になるころには船外機のスロットルをたまに握っていた彼にとって、多少船は異なるもののエンジン部に燃料が入っていることは熟知していた。
 この船を燃やそう。
 港に横付けされている船の中でも、纜が比較的短く、すぐに火の手が上がれば、たちどころにがらくたにとどくと思われる一艘に、彼は狙いを定めた。エンジン部に炎が引火すれば、たちまち船体もろとも赧い炎を吹上げ爆発するだろう。その炎により飛び散った火の粉は、燎原を広がる仄白い頽れとなって群獣のようにがらくたをのみこんでいくに違いない。だが、島を焼き尽くすほどの火事を起こすには、もう一つ、たとえ途中消されたとしても島を脅かすに充分な火の手が必要だった。かりにここから炎を吹き上げさせたとしても、もう一つ島の住民たちを引き寄せておくための出火場所が必要なことは自明のことだった。
 彼は、港とは正反対の山間のがらくたが小山のように堆積したような場所にその囮を拵えることを考え、それに適した場所を捜しに行った。一時間ほど歩いただろうか。頂度、民家かからも離れ目立たず、がらくたが周囲を綺麗に取り囲みトーチカのように外部から見えにくくした窪地があった。一時間……時間的にもそれが限界だった。彼は、がらくたの欠けらをつかみ、火を点けてみた。もし、ただマッチの点火だけでは延焼してくれないのであれば、またそれなりに案を講じなければならなかった。船のエンジン部からどうにかして燃料を抜き取ってき、それを持って来てもいいのだ。
 がらくたは、最初少し焦げただけで、そのまま鎮火したように小さく縮こまったようになってしまった。燃えているのかどうかのその反応一つさえ何も返って来ない状態だった。それは、彼も予想していた結果だったために、そう落胆の色は示さなかった。ところが、彼が、その欠けらを何の気なしに放り捨てようとしたそのとき、ちょっとした異変が起こった。がらくたは、掌で持ちつづけれないほど熱くなったかと思うと、たちまち蒼白い炎を立てて、じりじりと燃えていったのだ。それも、彼がすかさずその熱さに適わぬと手を離し、そのため転がった炎の力で他のがらくたへも燃え移らないのか、そちらの方が心配になり警戒したほどにだ。がらくたは、それそのものが燃えるためにできた、塊、だったのだ。彼は、一層火が立てやすいようにがらくたを寄せ、暗くなるのをじっと待った。星が瞬き始めた。まるで気圧の薄い高地で見るような星の光だった。光は大きくその照射するスペクトルの輪郭を保ちながら、ときに膨脹するような気配を見せ、それでもまたもとの枠におさまると外の大気との調和を取り戻したように燐光を徐々に小さくし、静まっていった。
 彼は、予め、幾分なり寄せていた目の前のがらくたにゆっくりマッチを擦り火を点けた。がらくたは、また昼間のようにしばらくおとなしくしていたかと思うとじりじり音を立てだし、そのまま蒼白い炎を立てながら燃え、その炎を二重三重に大きくしていった。彼は、自分の体が熱く、傍にいられないほどになったのを感じとると、後は自然に火が燃え移っていくだろうことを自分なりに判断し、すぐに今度は港へ駆け出した。できるだけ民家の方に近づかない道を遠回りに、潮の匂いだけを頼りに急いだ。
 港に着くと、赧い陽炎のような幕が頂度、山間の方に張り出されたようになり、その幕の向こう側では派手な出し物がなされているようにチラチラ何やら足下を見え隠ししているふうだった。たまにその動きが激しいのか、その幕と言わず、それを包む被膜のようなものまで揺らしていた。一目見て、誰の目からもただならぬことが起こっているらしいことだけは、はっきりとつかめるまでになっていた

『島』・その二十


 半鐘がようやく鳴り出していた。
 だが、幸いにも強い風が火に味方した。風は、火を煽りながら、がらくたと炎とをこれ以上できないというほどに睦まじいものにさせていた。風に勢いをつけられた炎は、がらくたをのみ、がらくたは炎を包み込みながら、赧い衣裳を着るとそのまま逃げ去り、また新たに地表に出てきたがらくたにその席を譲っているようだった。港に立ち尽くした彼は、船を燃やそうかどうか、それさえ戸惑うほど、火炎は今のままで充分すぎる、と思えた。
 彼は船に飛び乗り、そのエンジン部に火をつけるため、リュックからノートを掴みだしそれを燃やした。タケダらもらったノートをそうやって利用することは前々から考えていたことだった。その火種を船の中でも最も燃えやすい油の染み込んだ甲板辺りに、しかもエンジンに引火しやすい場所に投げ入れればすべてはうまくいくのだ。
 ところがそのときだった。
 誰かの叫び声が比較的まだ遠くの方で、しかし確かに今やろうとしている彼の行為を咎めるように荒立った調子で耳元にとどいた。島の者に見つかったことは確かだった。彼はすぐに計画を切り変え、咄嗟に赧い炎を立てページを捲りながら燃えているノートをがらくたの方へ投げ捨てると、船から飛び下り岸壁に結び付けてあった纜を解き索輪を船首に投げ入れた。そしてまた船に乗りディーゼルのエンジンを掛けた。勢いよく二度、三度紐を引くとエンジンは、軽快というにはあまりにゆったりとした音を響かせて、それまたゆっくりと厳粛に動き出した。彼は、海へ逃げた。沖へ行くに従い、少しずつ島の全容が見えてきた。彼は、心なし倉庫のある南の方へと舵をとった。がらくたが、確かに、さっき彼が火を起こした辺りで激しく燃えていた。
 彼は、同時に島全体が赧い炎を吹上げ焼けるのを見ているような気になった。それはタケダの残した日記とその記憶を本当に焼くことであり、今となっては彼自身、それとともに行動した彼のこの島で経験した記憶を焼き尽くすことでもあった。
「島は、やがて沈むだろうか」
 彼は、思った。
「炎が鎮まり、いつもの平穏を取り戻した後、時間をかけ、ゆっくりと、しかし確実に、研究室で見た、あのグラフィックのように、地質の構造に抗うことなく……」
 それから目に映るものを彼は、実際のところ、真実なのか彼自身の描いた幻影なのかはっきり言い切る自信はなかった。 炎の中に時折り、散乱する火の手の中でも大きな焚燼が舞い上がっていた。火焔の先は曲がりくねり、なにやら蠢く生き物のぬらぬらとした舌先のようにもそれは見えた。
『白蝶だ』
 彼は、心の底で叫びともつかぬ言葉を発していた。
『白蝶が、躯を炎に包まれ翔んでいる』
 白蝶たちは、襲いかかる火の手から逃げおおせるかのように、蝶道を突き進んでいるようだった。そしてその先には三つの倉庫があった。倉庫に舞い降りた蝶たちは、力尽きたように一斉に倉庫の壁や天蓋に身を横たえていた。炎は倉庫に燃え移り、三つの倉庫はたちまち火焔の宿る棲となった。「倉庫が燃える、まさか、あの倉庫が……」彼は、船をゆっくり岸の近くで旋回させながら、その場でじりじりと焼け尽くす炎を目の当たりにし、まるで自分の体そのものが、煮え滾る烽火の中で身悶えしている一個の肉の塊のようになって熱く火照ってきているように感じていた。知らぬ間に体の中心部から止めどなく流れ出してきている汗を掌で拭っていた。
 燃え盛る島の中腹から湧き立つ炎の中に、タケダや、不具の妻や、その息子トオル、それに島の住民であったケンゾウと多くの倉庫に消えていった老人たちの顔が泛かび、彼がそれを見定め静視しようとした瞬間、すぐにまた、それは消えた。
 遠くのほうからは、忘れ去られたようにさっきの半鐘がまだ鳴り響いていた。彼は、その鐘の音といっしょに波の音も併せて聴きながら、それがやはり彼の描いた勝手な幻影であるという証拠のように、なぜか自分の中にある空洞をその時、強く感じていた。
                                    (了)
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