2010年07月25日

大阪のアンドウさんより、素敵な感想をいただきました。

宮本さん

梅雨明け後1週間ですが、急な暑さの日々、いかがおすごしでしょうか。

先週、解放文学賞の授賞式のときに宮本さんの『游人たちの歌』いただきました。

ありがとう。去年一度読んでいるのですが、本になると、違った印象を持ちます。

丁寧に事象を考察し、書いている姿、それが印象に残りました。イメージが鮮明に残る。

一人ひとりの人たちを見る視点、宮本さんの思想というものが明確になっていていいなと思いました。

人が生きる、哀しむ、楽しむ、苦しむ、喜ぶ、いろんなものが総合として人というものがある、いろんな

思いが人一人一人に芽生え、成長し、消滅し、かかわりあいといったことがあるのでしょう。

暑い日々ですが、あなたは大切な人だから、体には気をつけてください。

夢屋のみなさんによろしく。

アンドウ

2010年07月23日

かつて宮地小学校で担任していた教え子の保護者から、このようなあたたかいお礼の文章をいただきました。ありがとうございました。

宮本様

毎日お疲れさまです。
昨日蔵原の書店で先生の本、買い求め拝読させていただきました。

宮地小時代、トオル君も私の次男と年齢もそう変わらず、
お母さんのご苦労と我が子への深い愛情、とてつもない絆で結ばれ頑張っておられたのが 目にうかびます。
子供は日々成長し、親とむきあう。  親は体力、気力も使いはたし親として責任がありご苦労なさって、またご家族の不幸な出来事もあり大変だったなと思うばかりです。

私も4歳と2日で母と死別、戦中派の生まれ
母の愛情も知らず、今日があり、トオル君のお母さんの頑張りを遠くからみておりました。そしてお母さんをサポートする先生方、まわりの友人、トオル君の少年時代は本当に幸せだったと思いますよ。

先生 夢屋の発展と障害者の人達の幸福とは何かをいつまでも 永遠に ことばは悪いですけど追い求めてください。・・・・・

2010年06月12日

夢屋ブックレット Vol.1 『游人たちの歌』〜ある自閉症の青年らと生きて〜 です。

IMG_1084.JPG IMG_1085.JPG
このたび、ブックレットという形で、『游人たちの歌』)(夢屋設立から5年までのノンフィクションです)を、NPO夢屋プラネットワークスが版元となり、出版することができました。
帯文には、鎌田慧さんから次のような身に余るお言葉をいただきました。
血みどろの実践の中から生み出された新たな表現。
著者の強烈な生き方が、
障がい者の世界を赤々と照らし出している。

一冊800円です。どうか興味があられる方は、夢屋までご連絡ください。尚、『游人たちの歌』のカテゴリーには、各章のさわりの部分を紹介しております。

2009年09月05日

游人たちの歌・第一章 幼い日の記憶と体験、そして北九州での出会いを経て 一、有明の海の底から

私は、一九六一年、熊本と福岡の県境、荒尾に生まれた。高度経済成長期の幕開けであり、翌年には、「総資本」対「総労働」という嵐のような激しい争議が、隣接した大牟田とともに城砦を奪い合い吹き捲った。私は言わば、その燃え滓ともいうべき数多くの破片の散らかる中、鈍い光さえ感じ取れぬまま、生きてきた。
 私の通った校区にも、宮内社宅と大平社宅という炭鉱住宅があった。そして私を幼稚園から小学までの八年間、いじめぬいたヤマダもその住宅にいた。
 あれは小学四年のときだ。私は、一度、彼の家に連れていかれたことがある。縦横真っ直ぐに碁盤の目のように配され、軒先を並べた家屋の群れは、それ自体明らかに別の町のようだった。彼はその炭住に入るやいなや、さらに態度を大きくし自信に満ちた姿になった。私は、いよいよ逃げ出すにも容易にできぬ地点にきたことでそわそわし、内心胸が張り裂けそうだった。実際に、何をされるかわからない、そう思った。
 その数日前、私は彼に歯向かい、「帰るな」というのに黙って家に戻っていたため、次の日、朝学校でコンパスの針で腿を刺されるという目にあわされていた。そのとき教師は、私が泣いているのに気づき理由を聞いたが、さらなる仕返しが怖く黙っていた。その日はそんな彼が、こちらの改悛ぶりを試すテストだったのかもしれない。彼は開き戸の扉をガラガラっと勢いよく開け框にランドセルを投げ出すと、突然糞がしたいと言い出した。私はそのひと言に逃走のチャンスができた、そう思った。まさか便所にいるときまでこちらに目が注がれることはない。まさしく本能的なものだった。目の前の危険を避けることに必死で、後の報復を考えていなかった。いや、それほど状況は切迫していたのかもしれない。私はもしかすると彼にこの家で殺されるのでは、そう思っていたほどだ〜。

游人たちの歌・第一章・二、茜さす地、北九州へ

高校を卒業後、私が選んだ場所は、かつて鉄鋼の街として、荒尾、大牟田と同じく、この日本を支えてきた北九州だ。
 熊本にいるとき、いじめにあい、もっぱら内に引きこもりがちになり、人との関係をつくれずにいた私は、むしろこの北九州の地で、己とは何かを探る基盤である「自我」を獲得する契機を得た。とくに今、「夢屋」をやっていて、私の中に障害者とかかわる下地をつくったボランティア組織「障害児の遊びを考える会」、通称「遊びの会」なくして、今の私は語れない。
「遊びの会」は、一九八一(昭和五十六)年に正式に設立した。
 中心となったのは、当時、生活団で幼児教育に携わっていた柴原良子さんと北九州市の外郭団体、社会福祉事業団に勤務していた森本康文さんである。二人が、社会福祉法人「あゆみの会」の在宅訪問指導員としてボランティアで出会ったことがそもそもの出発だ。一九七九年に施行された障害児の就学義務化に伴い、時代はまさしく分岐点に差しかかろうとしていたころである。
 それまで、肢体不自由の幼稚園児のサービスがなく、通称「亀の子保育」で週に一度、療育的活動をしていた柴原さんは、既に二足の草鞋を履く身でありながら、法改正にともない、小、中、高までの児童、生徒の余暇をどうすれば充実したものにできるか、森本さんとともに検討を始めていた。
「とにかく、日頃、外に出ることの少ない障害をもった子どもたちに、より多くの場所や出会いの機会を与えたい」
 二人は、東筑紫短大ボランティア部の学生と家庭訪問活動を行い、本人や親の思いの聞きとりをし、家庭的な雰囲気の中での、月一回の遊びの例会を始めたのだった。
 在宅から就学という形を変えての障害児の社会参加の意識の波は、たちまち加速、参加者は増加の一途をたどっていく。
 たちまち数十名に膨れ上がり、東筑紫短大のボランティア部だけの力を借りての運営だけでは、ままならない状況となり、思いきって会を組織化させ、より綿密な計画と準備のもとに、月一回の例会を行う形に変更していくことになるのだ。
 だれもが入りやすく親しみやすい雰囲気を大事にしながらも、『母子分離』『地域社会に根差した活動』『健常児との交流』という三本柱を掲げ、会が正式に発足して二十四年たった現在も、それは崩れてはいない〜。
 

游人たちの歌・第二章・一、阿蘇での新たな出発と『自閉症』という壁と向き合って。 一、一人の青年と始めた作業所づくり

一九七五(昭和五十)年、八月二三日、トオルは、この世に重度の自閉症児として生をうけた。熊本県阿蘇郡一の宮町立宮地小、一の宮中、そして阿蘇農業高校(現、清峰高校)を聴講生の形で卒業した後、阿蘇町の通所授産施設『くんわの里』へ通ったこともあったが、それが最も安易な選択だったと母親のマサミは、やがて気づくことになる。労働生産を基盤とした施設では自閉症の壁は厚く、彼の調子の波はますます落ちる一方だったからだ。しかも園生にひどいいじめにあったこともあり、家庭ではその鬱憤が暴力となってあらわれ、ほどなくそこも辞めざるをえない状況となっていた。家族の中で最もトオルをつきっきりで支援していた母親は、いよいよ息子ともども追い込まれていった。
 ある日、ひとしきり状態の悪い息子をなんとかなだめ、ようやく眠りにつかせようとしたとき、くたくたになった母親は思いつめ、彼が目を閉じしばらくしてから、胸に跨がり首に手をかけ心中をこころみようとしたことがある。
「殺して、お母さん」
 だが、疲れきった目をとろんと開け、抵抗もせず、掠れた声を上げる息子に最後の力は加えられることはなかった。
 当時、私は道路を挟んで数メートルしか離れていない宮地小学校に勤務していたのだが、トオルと母親の現実をかつて彼を小学一、二年で担任していた教諭で、人権教育を担当し同勤していた竹原ナホ子さんに聞いたとき自らの教師としての無力さに愕然とした。いや、教師ではなく人間としての無力さをまざまざと提示せられたのかもしれない。
 その後、私自身、少しずつトオルの家へ出向いては、様子をつかみ、家族と会話する中で、自分の生きる場所はむしろこちらの方ではないかと考え出していた。
 たとえ私が教師を辞めたとしても、その穴埋めは、毎年、多くの採用試験を受ける者で可能だろう。だが、トオルとその家族を支え、彼の生きる場所をいっしょにつくっていく者は見渡したところ、これからもずっとあらわれそうにない。
 北九州の地で学生時代を過ごし、ボランティア活動を通し、障害者と健常者がともに生きる空間に、豊かな思いを感じていた私は、教師になってからもどこかで、そんな場がつくれないものかと心の隅で思っていた〜。

游人たちの歌・第二章・二、地域の人々とともに生きて 、

 
作業所となる店の大工仕事は、終日、手作業の中、行われていった。
店舗は、こんなこともあろうかと自宅を兼ね、マサミ江が夫の反対を押し切って買っておいた一階で、もとは焼き肉屋だった。できるだけ金がかからないようにプロに頼んだのは、素人にはできない鉄筋やボードの絡んだ外装、それに、そこで使う家具類だけだ。内装の取り壊しから壁づけ、塗装をすべて私とトオルとでやっていった。それらの作業は、途中、宅配便のような臨時のバイトをしながら、一年間みっちりつづけられていったのだ。
 壁はいうまでもなく、床、洗面所、とくに水を使うところはタイル剥がしがうまくゆかず手こずった。タイルそのものは、頭の平の鋭角な金具を槌でかませれば簡単にパラパラとはつれるのだが、下の網の目の針金が蔦のように食い込んで、無理に引きちぎろうとすれば指先を何度も裂いた。私はとうとうトイレと洗面所に二週間入りっぱなしで、おまけに床のコンクリもコンプレッサーで砕かなければならず、暗闇と閉所に長時間いたせいか瞳がチカチカし、ついに床に横たわってしまったこともたびたびあった。
 店をほぼ壊しおわると、今度は必要なところに柱を入れ、プラスターボードで壁をつくっていった。
 ボードは充電ドライバーでビス留めしていく。天井貼りは、トオルと持ち上げ私がネジを締めていくのだが、たまにトオルが力を抜くことがあり、そのときは畳み一畳分もあるボードが私の頭上に襲いかかった。私はそのたびに、必死で頭のてっぺんをあてがい首で押さえねばならなかった。トオルはなにがあったのかわからない様子で、キョトンとしていた。つくりかけの店の中には、いつも木くずやラッカーの匂いがたちこめていた。扉を開けたとたん、それらがムッと鼻にきて、嗅覚だけではなく体全体をつつみこんだ。今思えばそんなことも、トオルを必要以上に刺激していたのかもしれない。壁の漆喰ぬりをはじめ、腰板や胴ぶちのとりつけも全部私の仕事だった。ときにはオーディオやコンセント類の配線も見なければならず、仕上げに入ってからの作業はさらに細かく、なかなかすすまなかった。
「トオル君もずいぶんかわったね」
 家具を注文していた木工職人の吉村さんが、最後の仕事を終えるとき、おいしそうに煙草を吹かしながらしみじみ私にそう語ったことがあった。
 「最初は落ち着きがなかったけど、ほんとうにずいぶんかわった」
 私は、そのとき隣に座ってお茶を飲んでいた。私もトオルを見ながら同じことを思っていた。これまで障害者とかかわったことのない吉村さんが、一つのものをいっしょにつくりはじめ、つくり終えていく過程の中でそんなところを感じとってくれたことが私には何よりもうれしかった〜。

第二章・三、『こだわり』という名の氾濫

 
内装工事もかなりすすんできた年の瀬の迫った十二月、担任していた児童の保護者の紹介で宅配便のアルバイトを始めた。
宅配便の最後の日のことだ。前日、私はトオルからテレビ局へまた手紙を送ってほしいことを頼まれ、その文面を家で書いてくることをうっかりわすれていた。
「ミヤモトさん、どうして忘れたつ?」
「そりゃあオレだって疲れて寝てしまうことだってあるくさ」
 私はもう少し丁寧に答えなければと思いながらも、どちらかというと邪険に言い放った。午前中は、私はトオルの相手をせず、宅配便をくばることに専念した。午後のことだ。いよいよ小荷物は、残すところ一つになった。さっそくトオルがまた聞いてきた。
「ミヤモトさん、どうして手紙わすれたの」
 少し山間にある、ペンションへの配送途中だった。
「だけん言うたろう。疲れて寝たって。べつにわざと忘れたわけじゃなかて」
 トオルはしばらく黙っていた。私も喋らなかった。わずかだが車の通りの少なくなった道路へさしかかった瞬間だった。私がカセットでも聞こうかとスイッチを入れるためトオルの側へ手をのばしたときだ〜。
  

第二章・四、超えることのできない現実へ、再び


草花の開く季節がやってきた。早いもので作業所づくりに着工して一年がたち、いよいよ、小規模作業所『夢屋』のオープンが、一週間後の四月六日に迫っていた。
早朝、四時過ぎに電話のベルが鳴った。マサミからだった。何事かあったことは確かだった。彼女の声はふるえ、ほっとけば溶けかかった雪山のようになだれ落ちていくのではと思われた。
「宮本さん、ごめんなさい」
「どげんしたと。トオルがどがんかしたつじゃろ」
 何かあったとしたらそれしかなかった。
「トオルが、もうどうしようもなくて、三気の里へ連絡したつ。今朝ん二時半だった……」
 三気の里は自閉症を中心とした知的障害者の更生施設で大津町にある。トオルは作業所づくりを始めてからも籍はそのままぬかず、万が一に備え、緊急のときはそこへ連絡しようとあちらの担当とも話し合っていた。澄江は、それら一語一語を肝の底からしぼり出すようにつないで言った。
「もう、家族のだれもおさえきれんで……」
 私は黙って聞いていた。
「わたしが言わないかぎり、もうだめだけんね……。もう、だれかがこのままじゃ死ぬんじゃなかかと思て……」
 一瞬、そうか、そうだよな。トオルはいないんだなと私は自分自身に言い聞かせるようにつぶやいた。オープンは来週なのだ。なのに一年間いっしょにやってきた主役のトオルが、今、いなくなった。しかし、どこかでホッとしている自分がいることも否定できなかった〜。

第三章・『夢屋』での障害者たちとの出会いと別れ           一、集い始めた仲間たち

 
トオルが一時的に三気の里にあずけられてから、夢屋はしばらく灯の消えたような状態だった。それでもトオル以外のメンバーもさっそく現れた。
 ミチコさんだ。夢屋がオープンする三年ほど前、彼女は、娘さんが就職のため親元を離れた後、突然虚脱感を覚え、不眠症に悩まされだした。周囲のアドバイスから、更年期障害だと思い込み、いくつかの病院をはしごする形で検診するが良い結果は得られなかった。一つの病院で、睡眠薬をもらいしばらくは眠れる。だが、一ケ月もするとまた効かなくなる。と、次の病院へ。人から良いと言われる病院へ行き、そして、又、効かなくなる、そんなことを繰り返していた。
「眠れない」「やる気がおきない」「何もしたくない」状態は、やがて「死にたい」という局限の心理状態になっていく。ついに精神科の受診を考え出したとき、彼女に引っかかっていたものは、やはり結婚適齢期の娘さんのことだった。
「もし、母親が精神の病だとし、それが娘の将来に影響を与えないだろうか」
 ミチコさんは、意を決して娘さんに相談する。
 返事は意外なものだった〜。
    

游人たちの歌・第三章・二、施設、家庭、それから夢屋。

 ノリオさん、レイナさんが常時メンバーとして加わり、ケンジさんもときおり顔を見せだした十一月、ついにトオルは一時帰宅を果たした。金曜に三気の里へ私が迎えに行き、車で夢屋に向かう。一泊後、土曜にマサミが家から送っていくという形だ。園へ帰る日は、計画では、一月ごと一日延ばし、土曜から日曜、最終的には月曜にするというトオルとの約束だった。
 一日一日、トオルの生活を見てみなければ、私たちも対応の形がまだハッキリとつかめない。帰宅した夜は、もちろん夢屋の二階の自宅で過ごすため、マサミ以外の家族との協力も必要だった。猛には、父親、それに四つ違いの弟がおり、いざパニックになった場合、二人に見てもらうケースは、当然増えてくる。
 昼間は、トオルを落ち着かせるため、できるだけ夢屋のメンバー全員でいっしょに過ごそうというのが、まず生活へ溶け込む第一歩だ。
 もっていく洗濯物やズボン、下着などをバッグにつめながら、私は、ようやくこの日が来たことに抑えようのない喜びを感じていた。
 三気の里を出る時、職員たちも笑顔で見送ってくれた。
「トオルくん、ゆっくり楽しんでこんね」
「ハイ」
 トオルは素っ気なく返事をし、バッグを片手に私の車へ向かう。半年前、すべての希望の灯が打ち消えたように施設へ再入所し、今、再びトオルの願いを実現するため、地域での生活の第一歩が始められようとしている。私の胸も当然のように高鳴っていた〜。

游人たちの歌・第三章・三、父親の死、そして……

一九九九年四月十九日、トオルの父、テツオさんが突然の交通事故で亡くなった。
 深夜、自転車で道路を帰宅途中、前方不注意の大型トラックに巻き込まれたのだ。まだ五十歳になったばかりだった。晩年、澄江との関係が悪かったと言っても、夜、トオルの調子がわるいときは、ドライブに連れていったりし世話をしてくれていた父親である。
 いつか人には死がおとずれる。だが、あまりの急なことに家族を始め、夢屋のメンバーも悲しみとともに混乱に陥った。その年、既に弟は大学に進学し県外へ出ていたため、様々な諸用に忙しいマサミに代わり、私は、三気の里にいるトオルに父親の死を知らせに行った。 行く途上、私は涙があふれ、車の運転ができず道の脇に停車した。
 父親の早すぎる死が、悲しかったこともある。だが。それ以上に、その死をも家族から離れ、たった一人施設で聞かねばならない彼の存在が、痛切な悲しみとなって心に迫ってきたのだ。
「障害」とはいったい何なのか。地域で生きるにはあまりに手のとどかぬ壁があり、今、ともに暮らす力のない現実を自分自身につきつけられる思いがし、悔しさがこみあげた。
「トオル、実はね……」
 彼の部屋で向き合い父の死を説明しようと言葉にしたとたん、堪えきれず再び涙があふれた。トオルの隣りには、施設で新しくトオルを担当している指導員の石井が座り、彼も零れ落ちる涙をしきりに拭いていた。
 トオルはそんな私たちの顔を、眉間に皺を寄せぎみに、合点のいかぬ表情で見ていた。
 ある程度の説明を終えると、ゆっくりトオルが質問した。
「お父さん、生き返る?」
「生き返らない」
 彼は神妙な表情になり、顔をしばらく伏せ、上目づかいに再び口を開いた。
「お見舞いは?」
 トオルにとっては、それが葬儀の意味だ。
「明日あるから、来てね。皆待っとるけんね」
 私はトオルの手を握り、約束した。
 施設の協力も得て、トオルは無事、私たちに見守られながら、他の親族たちといっしょに葬儀に参列できた。
 それから一週間後の二十六日の正午すぎのことだ〜。

游人たちの歌・第三章・四、惜別と悲しみを乗り越えて

 世の中がプレミアムで沸き立った二000(平成一二)年の二月十日未明のことだ。
 突然にノリオさんが逝った。
 コーヒーを飲みかけのまま、炬燵で硬くなっていた。流しには吐いた跡があり、その後具合が悪くなったらしい。心不全だった。発見したのはノリオさんの家へたまにビデオを借りに行っていた近所の人で、昼過ぎに見つけた。私はたまたま、娘の誕生日のため、荒尾に帰っていて、翌日、娘たちに会うつもりでいた。実家に帰りつくやいなや、父から、今、夢屋の竹原さんから電話があったことが告げられた。 
 私はすぐに彼女に電話を入れた。竹原さんは極力落ち着いた口ぶりで、ノリオさんの死を伝えてくれた。私は我が耳を疑わずにはいられなかった。即座に娘に事情でお祝いには行けなくなったことを話し、とんぼ返りで阿蘇へ引き返した。信じられなかった。そして情けなかった。なぜよりによって、自分がいないときに死んだのだ。私はノリオさんの家に直行した。家では警察の長い現場検証がちょうど終わったところで、親族の者がさっそく集まり、今後の通夜や葬儀の段取りを決めていた。福岡のお兄さんも来ていた。お兄さんはたまたまホームに入所している父親を見舞いに来る日で、帰宅していたそうだ。弟が呼んだのかもしれないと私の顔を見るとしみじみつぶやいた。
 ノリオさんは、炬燵に入っていたため、足が膝からくの字に曲がった状態で布団に横になっていた。私はノリオさんの顔を見るなり、今にも話しかけてきそうな相手に、大きな声で詫びた。
「すいません、ノリオさん。見つけてやれずに、すいません」
 翌日の通夜の途中、ブレーカーが何度も落ち、奥からは目覚し時計が鳴り、それも止むとアラームがどこからともなく鳴り響き、闇と光、静けさと喧騒、彼岸と此岸の狭間で日野さんがふざけて、皆を驚かせているように思えた。それでもだれも慌てることなく、それがいかにも日野さんらしい姿のように、読経や焼香がつづけられ、しんみりと夜陰がすぎていった。
 葬儀で私は弔辞を述べた。切なく、苦しかったがどこかノリオさんの生き様が羨ましかった。風のようにやってきて、風のように去っていく。そうやって、ノリオさんは、地域で生きつづけたのだ。
「あんまり寝過ごして、うっかり死ぬようなことがなかごつ、注意しとってよ」
 私がたまにふざけて言うと、
「また、冗談でしょう」
 ノリオさんは笑いながら返したものだが、まさかこんなにも早く現実になるとは予想もしていなかった〜。
 
最近のコメント
2011.『夢屋だより』年末号より by ツネさん (02/14)
2011.『夢屋だより』年末号より by 逆 ナ ン (02/12)
2011.『夢屋だより』年末号より by セッ クス (01/25)
夜の夢屋。 by 風鈴 (08/20)
大阪のアンドウさんより、素敵な感想をいただきました。 by 吉田 祐一 (08/14)
児童文学作家、丘修三さんご夫妻と御親戚が宿泊されました。 by 喜多朋子 (05/27)
2010・5/2 ヨシダ先生のお仲間の皆さんが、野菜ty(ノナティー)に宿泊されました。その2 by 喜多朋子(吉田祐一の姉) (05/05)
「野菜ty」が宿泊所としてお迎えする初めてのお客様のために、ミユさん、チーさんもいっしょうけんめい準備をしました。 by 喜多朋子(吉田祐一の姉) (05/05)
2010・5/2 ヨシダ先生のお仲間の皆さんが、野菜ty(ノナティー)に宿泊されました。 by 吉田 祐一 (05/05)
今日は、ミサキさんの入所式です。 by 吉田 祐一 (04/12)
2009・12/8〜12/28 メンバーの日記 by しんいちろう (03/21)
2010・メンバーの日記 1月5日〜2月24日 by しんいちろう (03/05)
ご心配、ありがとうがいます。おっしゃるとおり、体調と相談しながらむりをせず、やっていきます。 by 腰痛アドバイザー (02/24)
名前、間違えててすいません。PWさん、これからもよろしくお願いします。 by PW (01/28)
お客様やメンバーのみなさんにごあいさつにいってきました。 by PW (01/27)
ミヤモっちゃんの、2010年、最初に読んだ一冊。〜『働く幸せ・仕事でいちばん大切なこと』大山泰弘著(WAVE出版)〜 by 『働く幸せ』公式ブログ (01/07)
ミヤモっちゃんの、2010年、最初に読んだ一冊。〜『働く幸せ・仕事でいちばん大切なこと』大山泰弘著(WAVE出版)〜 by 吉田祐一 (01/05)
2009・12/16 マイちゃんがやってきました。 by 本田 (12/17)
今日、みんなを迎えに行くと、山々は雪化粧をしていました。 by 阿蘇子 (12/16)
昼食の材料とミユさんの足を比べてみると……。 by 吉田祐一 (11/13)
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。